ファーレンハイト/Fahrenheit

#06 伏兵

 十一月二十二日 午後一時三分

「私の不徳の致すところにより、加藤様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます」

 今、俺はマンションの廊下で土下座している。
 俺が何も考えずに言った言葉に反応した加藤が悪いんだ、俺は悪くない、と言いたいが、そんな事は言えるわけもなく。

「謝罪があった、という事実は覚えておきますので、どうぞお立ちください」

 ――あ、これ許すとは言ってないやつだ。

 見上げるとそこには仁王立ちする加藤がいる。ノーメイクで髪の毛を下ろしてジャージを着ているせいか、いつもよりちょっと怖い。
 彼女の事を何も知らない人が見たら上品な笑みに見えるが、狂犬加藤を知っている俺にとっては怖くてたまらない。

「私が留守番を致しますので、葉梨とお昼を食べに行けばよろしいかと思いますよ」
「あ、はい。そうさせて頂きます、スミマセン」

 ◇

「加藤さんはなぜ怒ってらしたのでしょうか」

 加藤から許可が下りて逃げるように葉梨とマンションを出て、すぐに葉梨は聞いてきた。
 男同士の会話だからそのままを言ってしまえるが、加藤の返しを言うべきか悩む。俺よりも段階を上げた彼女の返しは、彼女自身の品位に関わる事だ。いや、自分で言っていたのだから品位も何もないが。

「うーん……」
「あ、いえ、いいんです、いいです、聞きません」
「いや、話すよ」

 葉梨にコーヒーを噴き出した一件を話した。加藤の返しは言わず、俺が言った言葉だけを言ったのだが、葉梨の反応が想定外だった。

 ――なんで耳赤くしてるの?

 生活安全部と言えば無修正モノの摘発もあり、そんなものは見慣れているだろう。見慣れているというより、映像の確認をしている間に『複数人の人体と臓器』としか思えなくなってしまう。相澤は『復帰』するまで二ヶ月かかっていた。それ以外にも性風俗店の管轄も生活安全部だし、いろいろと慣れているだろうに。

「あの……見えてはいなかったんですよね?」
「えっ?」

 ――もしかして野川のパンツ?

「あ…うん、見えてないよ。エレベーターで上がったし」
「そうですか」

 俺は思い出した。そうだった、この熊は野川の事が気になっているんだった。

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