ファーレンハイト/Fahrenheit
 美容院の帰り、野川はエレベーターを使わずに階段を下り始めた。それを横目に見送りに来た弟と話していると、残り三段の所でポンコツ野川が足を踏み外して転げ落ちて行った。俺は急いで駆け下りて野川に手を貸したが、「大丈夫です」と大きな声で言うものの、膝から若干の血が出ている。立ち上がった野川は辛そうにしていて、歩かせるより俺が野川をおんぶするのが一番良いと思ったが、日中の観光地の最寄駅でそれをする事も出来ず、野川は五センチの履き慣れないヒールに怪我した足でどうにかマンションに行った。
 その時、マンションにいたのは野川と同じ所轄の反社と、この熊の葉梨だった。
 まるで組事務所を訪れた女衒と売られた女の様相だったが、二人は野川の怪我を知ると甲斐甲斐しく世話を始めた。
 熊はマンションを飛び出してドラックストアに行き、数日間着けたままで傷の治りを早めるタイプの高い絆創膏を買ってきた。

 戻って来た葉梨は椅子に座っている野川に跪き、水を張った洗面器を傍らにタオルで傷口を洗おうとしたが、伝線したストッキングをどうするか躊躇した。それを見ていた野川が「私!ストッキング脱ぎます!」と高らかに宣言し、椅子から立ち上がりおもむろにスカートの中に手を入れたのだ。
 その至近距離にいた葉梨は立ち上がって野川に背を向けた。もちろん俺もそうしたし、反社は手のひらで高い絆創膏を温めながら背を向けた。
 組事務所に来た売られた女という設定のはずなのに、脱ごうとする女に反社と組員と女衒が背を向けるとはどういうシチュエーションなんだと俺は思ったが、この葉梨は耳を赤くしていた。

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