ファーレンハイト/Fahrenheit
 いつの間にか薄墨を刷いたような空の色になっていた。バルコニーに激しく打ち付ける雨粒の音だけが聞こえる。

「……言います」

 相澤は、水しか飲んでない、食事を取らないと葉梨が心配していたと言う。他の捜査員も気付いているから上にも報告が上がったが、インテリヤクザの米田は松永は女に振られたんだろと言っていたと。だから笹倉さんと何かあったんだと思ったと言った。

「で?」
「……それだけです」
「んなわけねえだろ」

 相澤に身体を寄せた。膝を当てると相澤は後退りして行く。そのまま仮眠室の扉を背にするまでの一メートル五十センチを相澤の目を見ながら追い詰める。
 怯えた相澤の逃げ道は仮眠室の扉が塞ぐ。

 肘を相澤の肩に乗せて右手で髪を掴み、左手で額を押して顔を上げる。
 相澤の顔を覗き込む。
 前髪が相澤の頬に垂れ下がる。

「相澤さん」

 俺と相澤は十五センチの身長差がある。だが、柔道のゴリラと剣道の俺では近接戦に強い自分の方が優位だと分かっているはずなのに、このゴリラは怯えていた。

「話してよ」

 激しい雨の音だけが聞こえる薄暗い部屋で、時折通り過ぎる稲光と雷鳴が映し出すのは、怯えた相澤の表情だった。

「さっ……笹倉さんは松永さんが元気にしてると聞いて安心してました。だっ……だから笹倉さんは大丈夫です」
「優衣香と会ったの?」
「はい」
「……ああそっか。……でもなんで、優衣香はお前に俺の話をしたのかな。お前から話したの? 初めてだよね、優衣香とお前が俺の話するの」
「…………」
「まあいいや。で、大丈夫って何が大丈夫なの?」
「…………」
「何が大丈夫なの?」
「……松永さんが元気にしてると聞い――」
「相澤さん、そうじゃなくて。俺はね、相澤さんが大丈夫だと思い至った原因と経緯を聞いてるの」

 相澤は視線を彷徨わせていたが、俺の目を見ると覚悟を決めたのか口を開いた。

「笹倉さんは松永さんだけを想ってます! 松永さん! 安心して下さい! お願いですからメシ食って下さい!」

 ――こいつは優衣香と間宮の関係を知ってる。

 俺は全身の血が沸き立つのが分かった。
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