ファーレンハイト/Fahrenheit
 俺はスタンドライトを消そうとする優衣香の右手を掴んだ。淡い光に照らされる優衣香の顔を覗き込み、問う。

「優衣ちゃん、してもいいの?」

 俺に向き直った優衣香は、左手の指で俺の頬を撫ぜた。解かれた俺の右手は行き場を無くす。
 頬を撫ぜる指の動きに合わせて、睫毛が揺れる。
 その睫毛の奥の瞳が俺を見据えた時、優衣香は頬を撫ぜたその手を、耳の後ろへと伸ばした。

「敬ちゃん、何かあったんでしょう?」

 指は後頭部へ伸び、髪を撫でていた。
 優衣香は、葉書が届いた翌日に俺が来た事から不審に思ったと言う。薔薇の花束もそうだとも。そして、ソファで抱きしめた時にいつもは一回だけなのに今日は二回も言ったからおかしいと確信した、と。
 これまで確かに俺の女になって欲しいという意味を含んだ言葉を言うのは一回だけだった。胸に抱く優衣香が嫌ですよと返事をして、俺をすり抜けて逃げて笑うまでが毎回のお決まりのパターンだった。

「何があったのかは言えないでしょう?」
「…………ごめん」

 優衣香が俺と付き合うのを嫌がるのは、俺が警察官だからだ。警察官であっても、所属を明らかに出来る警察官だったら、優衣香は俺と結婚してくれていたかも知れない。
 でも、家族にすら音楽隊で楽器を拭く係としか言えない今の俺の所属のままなら、それは無理だ。

「ねえ……何か性的欲求が昂るような事があったんでしょう?」
「えっ……」

 普段どんな事が起きても平静を装う俺でも、優衣香のその言葉にはさすがに焦ってしまった。なぜ分かったのだろうか。優衣香は親指で俺の頬を撫ぜながら、「その欲求は私では解消する事が出来ないのは分かってるはずなのに」と言った。そして、「それでも私のところに来てくれた事が嬉しい」と続けた。

 俺は目を瞑り、ため息をついた。俺が優衣香の事が好きな理由を改めて思い知らされる。こういうところが好きなのだ。でも、それ故に、優衣香は俺の支えになる事を拒んでいる。

「優衣ちゃん、キスしていい?」
「嫌ですよ」

 いつも通り即答する優衣香と顔を見合わせて笑ったが、ベッドで向き合っているのに、俺の手は優衣香の身体の向こうのシーツに触れているのに、俺はキスどころか抱きしめる事すら叶わないのか。そう思っていたが、優衣香は右腕を俺の首の下に滑り込ませた。

「腕枕してあげる」

 おいでと優衣香に誘われるまま、腕枕をされた。
 優衣香の顔の下に、俺の頭が収まる。俺の唇は優衣香の肌に触れている。優衣香の肌はこんなに柔らかくて滑らかだったのか。肌の香りは鼻腔をくすぐる。

――したい。

 優衣香の身体の向こうのシーツに触れていた手の指で、優衣香の背中をそっとなぞる。

「抱きしめてもいい?」

 いいよと言ってくれた優衣香の背中を強く抱きしめると、優衣香は小さく、んっと呻いた。この声を聴いても、艶のある薄い布越しに優衣香の肌身の柔らかさを感じても、俺は我慢しなくてはならないのか。
 自分の中の庇護欲と嗜虐心が交錯する。
 だが、優衣香の肌の温もりに包まれていたら、眠りに落ちるまで時間は掛からなかった。

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