ファーレンハイト/Fahrenheit
 十一月二十八日 午後八時四十二分

 船舶内のような内装のバーにバーテンダーと男性客が二人いた。一人は店の奥の壁にあるハードダーツボードに向かってダーツを投げている。もう一人は点数を紙に書いていた。

 入口のドアには船舶用の丸い窓が嵌め込まれていて、その窓の向こうに女の顔が見えた。その後ろに男がいるようだ。
 カランカランとドアに付けたベルの音がして、その男女は店内に入った。男性客二人はそれを一瞥しただけで、またダーツボードを向いた。
 女はカバンをカウンターチェアに置き、男は女が脱いだコートを受け取りハンガーに掛けて、壁にあるフックに掛けた。男がコートを脱ぐと女はそれを受け取ろうとするが、男は優しく微笑み「大丈夫ですよ」と言い、自分でハンガーに掛けてフックに掛けた。

 女は胸元の開いた白いノースリーブの上に白いシャツを胸の中程までボタンを開けていて、ブルーのデニムを履いている。ブラウンの髪は大きめのカールで女の美しい顔を華やかに彩っている。ピアスもネックレスも大振りな物を身に着けているが、指輪は着けていなかった。
 女は七センチのヒールを履いているが、男の口元程の背丈だ。男は長身で体格も良い。ダークブルーのデニムを履き、黒いヘビーウエイトの長袖Tシャツを着ている。袖口にブランド名が刺繍されたそれは、経年変化で彼の身体に馴染んでいる物だった。

 カウンターチェアを男が引き、女は座る。男はその右隣に座った。
「いらっしゃいませ」と、バーテンダーが二人に声を掛けると、男はモスコミュールを注文した。バーテンダーは男から女に視線を動かして視線を下にやり、女の両手を見てから女の目を見た。
 女がバーテンダーと目を合わせ、「ターキーソーダを」と言った時、バーテンダーは微かに目を動かした。

 ◇

 女が三杯目を飲み始めた時だった。
 アルコールが進み体温が上がったのか、男が腕まくりをした。それは腕の中程までだが、鍛えられた太い腕が露わになり、女はそれを見て口元を緩めて袖口と腕時計の間あたりをそっと触れた。女は指先に力を込めてから、その手を男の脚にそっと添わせた。男は横目で女を見て、正面を見て、カウンターの上に置いていた左手を自分の脚にやった。

 女の指先が男の手の甲に触れて、指がゆっくりと手の甲をなぞって行く。指と指とが重なると、男は指を開いて女の指の動きを止めた。
 男が親指で女の小指をそっと撫ぜると、女は膝を寄せた。
 男の親指と人差し指は女の小指を包み、中指は小指の先を優しく撫ぜている。

 男が親指と中指を離した時、女は男がいる方へ顔を向けた。だか、すぐに男の人差し指は小指を指先から手のひらへと撫ぜ始めた。女は目を伏せた。
 親指が女の手首を掴む。
 人差し指は手のひらを経て手首へとなぞっている。

 女の手はいつの間にか反転していて、男の指先が手首から撫ぜ始めていた。ゆっくりと、男の爪が女の手のひらを這って行く。
 そしてまた、指先と指先とが重なった。

 カウンターの下の暗闇で、絡めた二人の指は互いを求め続けた。

 ◇

 女がジャックローズを注文すると、バーテンダーはキッチンへ行った。
 それを目で追った後、女は目線を男の唇から目に移動させて、仄暗い店内の照明の灯りを受けた、濡れて輝く唇を動かして何かを呟いた。だが男は聞こえなかったようで、少し首を傾げてから、耳を女の唇に近づけた。
 女は耳元で何かを囁くと、男の目が動いて女を横目で見た。そして女は、耳朶にそっと唇を落とした。

 バーテンダーがキッチンから戻ると女は化粧室へ行く旨を男に伝えた。その間にバーテンダーはジャックローズを作り始める。

 一人になったその男に、笑みを浮かべながらバーテンダーが話しかけた。

「奈緒さんが男性と来店されたのは初めて、ですね」

 その男、葉梨将由は「そうなんですか」と言い、頬を緩ませた。

< 72 / 232 >

この作品をシェア

pagetop