ファーレンハイト/Fahrenheit

#03 いい男とただの男

 十一月二十八日 午後六時三十二分

 今日、加藤と葉梨はデートしている。
 加藤は午後三時から明日の午前九時まで、葉梨は午後五時から明日の午前八時まで、二人に時間を空けてやった。
 加藤に葉梨の事を言った時、「年下の男に言い寄られるなんて、私もまだまだいけるんですね」と、口元に笑みを浮かべて俺の目を真っ直ぐ見ながら言った。その後二人はデートの約束をした事をおくびにも出さず、相澤は何も気づいていない。

 今日はペアの加藤が不在だからと相澤は俺と一緒に外に出ているが、加藤と相澤の関係を聞き出しても相澤は頑として口を割らない。
 俺は相澤が着るコートの袖口を摘んで左右に揺らした。それを面倒くさそうに相澤は横目で見ている。

「ねえ裕くん、この前奈緒ちゃんと何かあったんでしょ?」
「何もないです」
「でもでもー、奈緒ちゃんは裕くんと何かあったって顔したんだよー? だから教えてー」
「何もないです」

 ――なにさ! ゴリラのくせに!

 相澤は目の色ひとつ変えず、あしらわれる俺はゴリラにカマをかけるタイミングを見計らっていた。

「あ、そういえば、松永さん、また加藤に土下座したそうですね」
「うん! したよ! 三年ぶり! だから教えて!」
「何もないです。で、何したんですか?」
「えっ、聞いてないの?」
「聞いてないですよ。加藤は『土下座された』とだけ毎回言います」
「そうなんだ! なら俺も言わない!」
「……加藤に土下座するって、碌でもない事をしたって事ですよね?」
「うん!」
「……もう五回目ですよね? 俺は土下座なんてした事ないのに」

 ――五回?

 過去に俺は、加藤に六回土下座したことがある。その都度加藤は相澤に話しているのだろうが、その抜けた一回は何なのだろうか。理由を言わないのなら六回と言っても差し支えないだろうに。

 加藤に初めて土下座したのは七年前だった。
 捜査で借りているマンションでシャワーを浴びている間に、加藤の存在をすっかり忘れた俺はバスルームから全裸で加藤の前に出てしまった。お互いに視線を動かす事が出来ずにいたが、俺は「とりあえずパンツ履いていいかな」と言った。それだけならパンツ履いた後に直角に頭を下げて謝罪すれば済んだのだが、「どうせ見るなら相澤のが良かったでしょ」と余計な事を言ってしまった。その時に初めて、狂犬になった加藤の姿を見てしまい、怖かった。その後、パンツ一枚で加藤に土下座をした。人によってはご褒美だが、俺は許してもらう事だけを考えていた。

 二回目、三回目、四回目と思い出していくと、本当に俺は加藤に碌でもない事ばかりしていて気が遠くなりそうになったが、相澤が知らない一回でカマをかけてみる事にした。

「五回……? そう……フフッ」

 横目に相澤を見て、目が合った時に俺は口元を緩めた。相澤の顔を下から上、上から下と目線を動かして、正面を向いて小さく鼻を鳴らした。

「あー、そうだね、仕事でなら……確かに五回だ。フフッ」

 プライベートで加藤と俺の間に何かあった、それを匂わせた。相澤は知っている。優衣香に男がいる間に俺が手を出す女は皆、加藤のようなキツい女ばかりという事を。背が高くて髪の長い痩せた女だ。
 相澤は一瞬だけ目を動かしたが、すぐに目を細めて呆れた表情をした。

「家に帰って加藤がいるのは嫌ですよ」

 加藤との間に何が起きたのかは絶対に言わないが、結果を言うから察してくれ、という事か。ならば葉梨の事は伏せて加藤に男の影があることを匂わせるか。

「もう長い事、加藤に言い寄ってる男がいるんだけど――」

 どうする、と言った時に相澤の顔を見たが、思いがけない相澤の目に俺は目が離せなくなった。

 ――何その目。

 相澤のこんな目を今まで見た事がない。相澤は手を握り締めている。目が微かに動いた後、その握った手を隠すようにコートのポケットに入れた。
 相澤は「どんな人ですか?」と言った時には、さっきの目は消えていて、いつもの目に戻っていた。

「知らない。でも加藤は『いい男』だって言ってた」
「いい男?」
「見た目の話じゃないのは分かるだろ?」
「…………」
「ねえ裕くん、奈緒ちゃんの恋をきちんと終わらせてあげるのも、いい男だと思うよ」

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