ファーレンハイト/Fahrenheit
 バーテンダーはキッチンへ行った。一分は戻って来ない。私は彼を目で追った後、葉梨の唇を見てから目を見た。

「ねえ、葉梨」

 私は口を開けて、小声で言った。もちろん葉梨には聞こえないから、葉梨は少しだけ首を傾げ、耳を私に寄せた。

「私を抱いて欲しい」

 葉梨は明らかに動揺している。そして横目で私を見た。私はそれを見て口元を緩め、葉梨の耳朶にそっとキスをして、カウンター下で絡めたままの指先に力を込めた。ずっと葉梨に翻弄されていた私の意志表示だ。


 ◇


 私がラストにジャックローズを頼む時の連れの男は本命だ、というサインは随分前にバーテンダーの彼とふざけて決めた事だった。
 私が化粧室にいる間、彼は葉梨に何か言うだろう。

 洗面台の鏡に映る自分の唇に目を落として、口紅を塗り直してグロスを重ねようした時、私は手を止めた。

 ――グロスはやめよう。

 開けかけたリップグロスを閉じて、ポーチにしまった。
< 80 / 232 >

この作品をシェア

pagetop