ファーレンハイト/Fahrenheit

#07 幕間 ここから始まる二人(後編)

 頬に触れる風は氷のように冷たい。襟の詰まったコートにマフラーを巻いているが、ストールにすれば良かったと思った。そんな中でも葉梨はいつも通りの調子で歩いている。スタンドカラーのコートでマフラーはしていない。

 バーを出てから少しして、葉梨は私の手に触れてこちらを見た。「手を繋いでもいいですか」と言い、私は承諾した。繋いだ手は、葉梨のコートに収まっている。

「あの、加藤さん……さっきの、加藤さんが言った……あの……」
「あー、うん、どうする? ホテル行く? 嫌ならいいよ」

 葉梨が少し、眉根を寄せた。
 どうして私は可愛く出来ないのだろうか。
 葉梨の指の優しくて執拗な愛撫の続きを、私の体は求めているのに。
 葉梨に抱かれても良いと、抱いて欲しいと思っているのに。

 そう思っていると、葉梨は街路樹で街路灯の光が届かない暗がりへ私を引き込んだ。繋いだ手は解かれた。

「ものすごく失礼な言い方である事を先にお詫びしますが、どうしても聞きたい事があります……」
「なに?」
「……俺で、性欲の処理をしたいんですか?」
「はっ!?」
「すいません」
「あー、そういうわけじゃ……ごめんね、私の言い方が悪か――」
「聞いてください、加藤さん」

 葉梨の顔を見上げると、葉梨は男の目をしていた。

「そうなのであれば、俺も加藤さんをそう扱います。でも、俺は加藤さんが好きです。愛したいんです。あなたの体を、愛したいんです」

 私はどうすれば良いんだろうか。
 性欲の処理だと言ってホテルへ行ったとしても、葉梨は私を優しく抱くだろう。だが、葉梨は私と体を重ねても、心が重ならないのは嫌だと言う。
 葉梨の顔を見上げると不安そうな顔をしていた。

 ――葉梨はいい男だ。

 私は背伸びして、葉梨の頬にキスをした。
 葉梨の肩に手を触れた時、コートの質の良さが指先から伝わった。

 びっくりして、恥ずかしそうに葉梨がはにかんでいた。可愛いな。

「今日は帰ろう」
「…………」
「どうしたの?」
「あの……」
「なに?」
「すごく……したいです。けど……今日は我慢します……」

 私の顔を見る事が出来ず、唇をきゅっと結んでいる葉梨を、本当に可愛いと思って、私は葉梨の手に触れた。葉梨は手を繋いできた。
私の顔は緩んでいる。恥ずかしい。下を向いているのは見られたくないからだ。

 多分、これが恋なんだろう。
 葉梨の言葉に私の心臓が跳ねたのだから。
 同じ意味の言葉は過去に何度も言われた。だが、葉梨が言ったその言葉は、葉梨が言ったから、私にとって特別な物になった。
 少女漫画にある、恋をした時の『トクン』というオノマトペがこの世に本当に存在するのだと、私は今、初めて知った。


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