ファーレンハイト/Fahrenheit
 私の鼓動はだんだんと落ち着いてきたが、手は繋いでいるものの、私達は言葉を交わさなくなってしまった。二人共恥ずかしいのだから、無言でも良いだろう。だが私は葉梨と言葉を交わしたいと、葉梨の声を聴きたいと思った。

「ねえ、プライベートで二人きりの時は奈緒って呼んでよ」
「えっ!? 呼び捨てですか?」
「そうだよ」
「無理です」
「なんで?」
「無理です」
「だからなんでよ?」

 押し問答を続けても、無理な物は無理だと引かない。頑固なところもあるのだな、と新しい一面を知って嬉しかった。

「他の男は呼び捨てなんだけど」

 私はそう言って、繋いだ手を解いた。不機嫌になれば、名を呼び捨てで言ってくれるだろうと思った。そう思ったのだが、葉梨は押し黙ったままで、私の顔を見ない。
 葉梨の顔を見ると、頬に力が入っているように見えた。歯を食いしばっているのだろうか。怒っているのだろうか。真っ直ぐ前を見たままで、横目で私を見る事もしない。

 ――ああ、言わなきゃ良かった。

 二人で道の先をただ見て歩いているだけの空間から、私は逃げ出したくなった。言わなきゃ良かった。だが、葉梨が小さく息を吐いた音が聞こえた時、葉梨は私の肘を掴んだ。
 強い力で、葉梨は私の身体を自分の正面にやり、膝で私の足を押して後退りさせた。背後は建物の外壁だ。私はこういう状況で逃げる術を知っている。相手の身体のどこをどうすれば良いか知っている。だが、葉梨も警察官だ。葉梨ももちろんそれを知っている。私が次にする動きを知っているのだ。背も高く体格の良い、腕の長い葉梨から逃れるのは無理だ。

< 82 / 232 >

この作品をシェア

pagetop