ファーレンハイト/Fahrenheit
 十一月二十九日 午前六時十一分

 連絡所兼仮眠室のマンションのリビングに松永敬志は一人でいた。ペアの加藤奈緒が不在の相澤裕典は一人で外出している。
 そこに玄関の鍵が開く音がして、ドアが開いて閉じられた。施錠されて靴を脱ぐ音がする。
 松永は右手にあるリビングのドアを視界に入れながら書類に目を通していた。

「ただいま戻りました」

 リビングの扉を開けた加藤奈緒はベージュのスカートスーツに黒のインナーを着ていて、大きくカールした髪を一つにまとめて横に流している。
 加藤は松永の姿を見て目を細めた。

「おはよう。ずいぶん早いね」
「……何をしてらっしゃるんですか? ああ、髪型も変わってますね」

 パイプ椅子を後にして立ち、片脚を座面に乗せて足を曲げたり伸ばしながら書類を読み、コーヒーを飲んでいる松永にそう問いかけた。

「ブルガリアンスクワットだよ」
「……ええ、そうですね」
「この前、署の階段を二段飛ばしで五階まで上がったら脚がプルプルしてね、鍛えてるんだよ」
「そうですか」
「髪は弟の所に昨日の夜行ってきたよ。頭がすっごく寒い」
「あははっ」

 松永はコーヒーをテーブルに置き、右手に持ち替えて手を伸ばした。それを松永の前に来て受け取ろうとした加藤が手を出すと、松永は伸ばした手を引っ込めた。

「どうだった? 早い出勤って、どう解釈すれば良いのかな」
「仕事熱心だと解釈なされば良いかと」

 加藤の返しに薄く笑う松永は、「俺はもう手を引くから」と言った。その言葉に首を傾げる加藤へ、「奈緒ちゃんの恋をきちんと終わらせてあげるのもいい男だよ、と相澤に言った」と言い、加藤の顔を見た。
 目も口も、何一つ動かさない加藤に、松永は笑みを浮かべて「なんだったら、俺が奈緒ちゃんの第三の男になろうか」と問うと、加藤の目が微かに動いた。

「ふふっ、どうしたのよ。あー、でもいいや。聞かない。後は自分で決めなよ、ね、奈緒ちゃん」

 加藤に書類を渡し、加藤が下がったところで松永はまたブルガリアンスクワットの続きを始めた。

「ここんとこ続けて彼女に会ったけど、二回連続でおあずけ食らってさ、ただの男になってるでしょ、俺。ふふっ。だから第三の男を演じるのも迫真の演技が出来ると思うよ。だから、どう?」

 その言葉に加藤は目を見開いて驚いている。

「彼女……? えっ……?」
「俺の恋人だよ」
「……あの、松永さんは特定の恋人を作らない方だと……」

 加藤が明らかに動揺する姿に歯を見せて笑う松永は続けた。「彼女に男がいる間はただの男。でも、彼女がフリーの時の俺はいい男なんだよ」と言うが、加藤は眉根を寄せて考え込んでいる。

「奈緒ちゃん。話するから座ってよ」

 そう言った松永は後の脚を下ろし、太ももをさすりながらキッチンへ向かった。

< 85 / 232 >

この作品をシェア

pagetop