ファーレンハイト/Fahrenheit
 十二月九日 午後九時三十三分

 冬の夜道を一人で歩いているが、不意に吹いた冷たい風に思わず首を竦めた。俺も相澤も官舎に帰るどころが寄る事すら出来ず、相変わらずマフラーの無い日々は続いている。ワイシャツを着ているからある程度は首の露出部分を隠せているが、いかんせん頭の下半分が寒い。
 チェスターコートのポケットに入れていた手を出し、指先へ息を吹きかけ温めていると、視界の端にちらちらと煌めく光が映った。見上げた視線の先には、イルミネーションによって彩られた街路樹がある。冷えた体に温かな気持ちが広がるのを感じつつ、いつものバーに寄ろうと少し早歩きになった所で、バーテンダーの望月(もちづき)奏人(かなと)が女性を店外まで送りに出ているのが見えた。
 その女性は望月とほぼ変わらない背丈だ。ヒールは七センチ程だから背丈は一メートル六十五センチといったところか。

 ――隠れた方がいい気がする。

 俺は望月(もちづき)奏人(かなと)からは見えない建物の陰に隠れた。
 店外に見送りなんて珍しいな、どういう関係なのかと二人を見ていると、女がお辞儀して、望月も同じようにして女が振り向いた。

 ――優衣香だ。

 少し歩いて自販機の蛍光灯に照らされた優衣香はまたバーテンダーに振り返り、まだ見送っているバーテンダーにまたお辞儀した。
 あと十メートルで優衣香は俺の前を通るが、望月が店に入らない限り声を掛けられないし、優衣香に気づかれてもいけない。

 あと八メートル。
 まだ望月は優衣香の後ろ姿を見ている。
 優衣香は望月の店に一人で来ていたのだろうか。

 あと五メートル。
 角を曲がって俺とは反対側に行った優衣香を見て、望月は店内に入った。

 ――優衣ちゃん! 待って!

 一方通行の幅員六メートルの道を渡り、キャメル色のコートを着る優衣香の後ろ姿を見ながら追いかけた。
 優衣香は自分に迫り来る足音に気づいて振り向いて俺と目が合ったが、俺とは気づいていない。

「優衣ちゃん」
「ひっ……」
「優衣ちゃん」

 驚いて目を見開いている優衣香は、やっと俺だと気づいてくれた。

「敬ちゃん! びっくりした!」
「俺もだよ。ふふっ」
「えっと、仕事中……?」
「うん、そうだよ」

 優衣香は何かを言いかけたが、やめた。仕事に関わる事だから聞いてはいけないと思ったのだろう。そんなの優衣香に申し訳ないと思うが、俺を思いやってくれる事が嬉しかった。

「あの店はよく来るの?」
「たまにね、いつも理志(さとし)くんの美容院の帰りに寄ってる」
「そうなんだ」

 美容院と言われて、髪型が変わった事に初めて気づいた。パーマをかけたのか。風がそよぐと良い香りが優衣香から漂う。ポンコツ野川に記憶を上書きされたシャンプーとは違う香りだ。

「敬ちゃんは短くしたんだね」
「ん? ああ、後ろで結んでるんだよ。長さは変わらないよ」

 優衣香はなぜかクスクス笑っている。どうしたのかと問うても、理由を言わない。まあいいか。優衣香が笑っているから。

「今日、パーマをかけて、髪色も変えたんだよ」

 髪色は暗くてよく分からないが、パーマは大きなカールだった。肩に乗る髪の毛が風に揺れていた。
 風に揺れる優衣香の髪、俺はそれが好きだ。

「優衣ちゃん、可愛いね」
「んふっ」
「なに? どうしたの?」

 笑いながら優衣香は「ありがとう」と言う。
 そんな姿が俺には嬉しくて、ここで会えたのも嬉しくて、優衣香を抱き寄せた。だが、優衣香は腕を俺の胸にやり、抱き寄せても密着しないようにした。

「えっ……優衣ちゃん、だめ?」
「違う違う。 メイクがコートとかワイシャツに付いちゃうから……」

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