この想い、21時になったら伝える

12. 雨の講演会と嫉妬心


 渡修一の第一回目・定期講演会の内容は、新しい治療法、新薬の紹介、人口減少を見据えた今後の歯科業界の在り方についてと、地方の病院での口腔外科医、歯科医、歯科衛生士の深刻な人材不足についての演説であった。
 
 公演が終わり、出入口付近の混雑が落ち着くまで、五十嵐と梛七は座席に座ったまま待機していた。少し離れて座っていた伊東たちは、五十嵐と梛七に挨拶をして、混雑した出入口に向かって歩いていく。梛七は、南に手を振りながら後ろ姿を見送り、ふと耳を傾けるとロビーの方から「凄い雨降ってるね〜」という声がチラホラと聞こえてきた。梛七は帰りの電車が運転を見合わせていないか心配になり、鞄からiPhoneを取り出した。
 
 「帰りは家まで送ってやるから安心しろ」
 
 五十嵐は、渡先生にLINEをしながらロビーから聞こえていた声に反応した。
 
 「い、いいんですか…?」
 
 「別に構わねーよ」
 
 五十嵐は分かっていたのだろう。電車が止まっていることを。梛七は、取り出したiPhoneで電車の運転情報をチラッと確認してみる。すると運転見合わせの表示が終日まで出されていた。
 
 「傑とななちゃ〜ん。お疲れ〜」
 
 「またうるせーのが来たぞ」
 
 うるせーとはなんだよ〜傑、と言いながら疲れ気味の橘は、五十嵐の横にどすっと座った。
 
 「今日は、渡先生んとこ行かねーの?」
 
 「この後すぐ、お偉いさんたちと食事会へ行かなきゃなんねーらしいから、ごめんって」
 
 「そうか。渡先生、会長になってから忙しそうだからなぁ〜。あ、ななちゃん久しぶりぃ〜」
 
 「橘先生、お疲れさまです。お久しぶりですね。お変わりないですか?」
 
 「全然この通り〜。ビックリするぐらい何も変わってない。ななちゃんは?おっと。また電話だよ〜。もーマヂ勘弁してほしい…。はい、もしもし橘です」
 
 「橘総合病院は忙しそうだな…」
 
 五十嵐がボソッと呟く。
 
 「え?橘先生って橘総合病院の先生なんですか?」
 
 「あれ。言ってなかったっけ?」
 
 梛七は、橘青志が父親の理事長が経営する橘総合病院の副院長であることを、初めて知った。救急外来指定でもある橘総合病院では、可能な限り急患を受け入れている為、事故などで口腔内を損傷した患者や、緊急なオペが必要な場合も含め、橘は休日もこうしたオンコールに対応しているのだという。クリニックでは扱えない患者は、全て橘総合病院へ紹介状を書いているのも、そういうことだったのか…と、梛七は頷きながら納得したのだった。
 
 
 電話の下側のマイクを抑えながら、ボソッと「ごめーん」と言い、顔の前で謝るジェスチャーをして橘は、会場を出て行った。
 
 「俺らも、そろそろ行くか」
 
 「はい」
 
 五十嵐と梛七は、落ち着いてきたホールの出入口を出てロビーに出る。ガラス張りの窓から外を眺めると、白波を打つような激しい横殴りの大雨が、地面を打ち付けていた。ロビーは雨宿りをする人で埋め尽くされ、五十嵐も梛七もその場で立ち尽くすしかなかった。
 
 「傑ぅ〜」
 
 ガラス張りの窓から外を眺めていたら突然、背後から五十嵐の名前を呼ぶ女の声が聞こえてきた。
 梛七は聞き覚えのある女性の声に背筋が凍る。五十嵐だけが振り返り、梛七は内側に映るガラス越しからその姿を目視した。
 
 「天宮…何しに来たんだ…?」
 
 「あら、お気に入りの脇田さんも一緒なのね〜。説明があった新薬、ウチも関わってるから。それに、傑は絶対ここに来ると思って来ちゃった〜。会いたかったし。ねぇ、送ってくんない?家まで」
 
 「はぁ?何でお前を送らなきゃな…」
 
 「先生!私のことはいいので、天宮さんを送って差し上げてください。私は適当に帰れますので…」
 
 梛七は五十嵐の言葉を遮り、勢いよくその場から走り去った。
 
 「おい!待てって…」
 
 五十嵐の声は届かなかった。
 梛七は、横殴りの大雨の中、用をなさない傘をさして、なりふり構わず駅方面へ走っていく。どんどん梛七の姿が小さくなり、五十嵐からは全く見えなくなった。
 
 「あ〜あ。こんな雨の中かわいそ〜。まァいいじゃん。そう言ってくれたんだから。送ってよ」
 
 「どけよお前、何のつもりだよ。お前が電車でここに来る訳ねーだろ。乗せて来てもらった人に送ってもらえ」
 
 「やだ。送ってくれなきゃここから動かない」
 
 天宮は五十嵐の右腕を掴み、べったりと引っ付いた。
 
 「放せ。触んじゃねーよ」
 
 五十嵐のドスのきいた低い声がロビーに響き渡った。残っていた来場者が一斉に振り向く。そんな視線などどうでもいいと、五十嵐は勢いよく天宮の腕を振り解いた。そのまま五十嵐は、駅方面に走っていった梛七を追いかけるように、傘を持って外へ駆け出ていった。
 天宮は、置き去りにされたことを恥じらい、激昂する。天宮は俯き、力強く拳を握っていた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 駅に着いた梛七は、待てばその内に来るだろうと、屋根のあるタクシー乗り場の行列に並ぶことにした。横殴りの雨の中、勢いよく走ってしまったせいか、傘がバキバキに折れ、全身がびしょ濡れだった。
 梛七はずっと俯いたまま、天宮の顔を思い出す。五十嵐と一緒にいる所を見られてしまった…と天宮を恐れ、五十嵐に嘘をついてでも直ぐに帰れば良かったと後悔した。
 
 時間だけがどんどん過ぎていく。全く来る気配のないタクシー乗り場で、ヒールで立っているのもそろそろ限界だった。このまま帰れるのだろうかと思った矢先、息を切らして走ってきた五十嵐に左腕を掴まれた。
 
 「はぁ。はぁ。はぁ…。帰るぞ…」
 
 「せ、先生…どうして…」
 
 五十嵐がさしていた傘に、梛七はグイっと引き込まれた。「つめてもらっていいっすよ、連れて帰るんで」と後ろに並んでいた男性に伝え、五十嵐と梛七は車を停めていた駐車場へ向かった。
 
 「もっとこっちこい…濡れちまうぞ…」
 
 五十嵐に肩を引き寄せられ、梛七は今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えた。小ぶりな傘の中で身を寄せ合い、二人は無言のまま会場の近くにある駐車場に到着する。五十嵐はエンジンをつけ、後部座席からジム用に使おうと予備で入れておいたバスタオルを梛七に渡した。
 梛七はそれを恐る恐る受け取り、タオルに顔を埋める。

 (あ…先生の家の匂いだ…いい匂い…)

 濡れてしまった髪をほどき、風呂上がりのような拭き方をしながら五十嵐の車に乗り込む。
 五十嵐はバスタオルを肩にかけながら、少し不機嫌に梛七を見遣った。
 
 「どうして勝手に走ってったんだ?」
 
 「ご、ごめんなさい…。私は邪魔かと思って…。あ、あの…大丈夫なんですか?天宮さんは…」
 
 五十嵐は大きな溜め息を吐いた。
 
 「あんな奴どうでもいいんだよ」
 
 「け、結婚…される相手なんじゃ…ないんですか…?」
 
 「はぁっ⁈俺があいつと結婚する⁈何言ってんだ?」
 
 梛七は、正直に天宮との出来事を五十嵐に話した。距離を置いてほしいと言われたこと、目障りだと言われたこと、それを聞いてどうしたらいいか分からなくなっていたこと、本当は今日、用事なんて何もなく天宮が見ていたら怖いと思って嘘をついたこと、これまでずっと言えないでいたことを素直に打ち明けた。
 
 「ったく…。あの女…」
 
 五十嵐は、濡れた前髪をクシャッとかきながら梛七に続けた。
 
 「なぁ…脇田。俺の話、聞いてくれるか?」
 
 梛七はコクリと頷き、神妙な面持ちで、五十嵐は天宮との過去を話し始めた。内容を聞くうちに、梛七はそれがどれだけ五十嵐を悩ませてきたのかと胸が痛んだ。父親を庇い、クリニックの為だったこと。自分の意思ではない選択をしてしまったことで、今も天宮に悩まされていること。どうしたらこの呪縛から解放されるのか悩んでいることを、五十嵐は梛七に打ち明けた。
 
 「だから、俺が話すこと以外は信じないでくれ。あいつに何を言われても、何をされても」
 
 「…はい。私は先生を…信じます…」
 
 梛七は頷きながら、反対車線のライトの光に照らされる五十嵐の横顔を見つめた。
 
 車は、梛七の家の前にある客用駐車場に停まり、五十嵐は最後に口を開く。
 
 「今日は、辛い思いさせて悪かった…。何かあったら次は絶対すぐに言え。いいな。絶対だぞ」
 
 「はいっ。今日はありがとうございました。また明日も、よろしくお願いします」
 
 「あぁ。ちゃんと風呂入れよ。おやすみ」
 
 「はいっ。おやすみなさい」
 
 梛七は初めて五十嵐に手を振ってみた。気づいてくれていないと思ったが、五十嵐も手を振り返してくれた。少しだけ、五十嵐と距離が縮まったような気がして梛七は嬉しかった。
 じめっとした雨の匂いが鼻の奥をくすぐる。空から降り落ちてくる無数の雨は、混沌とした感情を洗い流していくようだった。
 
 
 ◇◇◇

 
 梅雨がようやく明け、空が青々しく彩り始める。
 季節は夏へと移り変わり、小暑を迎えようとしていた。
 
 ゴールデンウィーク明けから、梛七は助手たちの指導に尽力し、診療中のフォローに入ったり、休憩中に勉強会を開いたり、少しだけ居残りに付き合ったりしながら、成長を見守っていた。
 五十嵐の機嫌の抑揚もだいぶ落ちつき、助手たちに優しい言葉をかける日も出てきた。少しずつクリニック全体が安定し始め、梛七は、忙しいながらも充実した毎日を送っていた。
 
 「脇田さん、次の患者さん。私が担当してもいいですか?」
 
 自ら名乗り出てきた橋口に、梛七は驚く。
 
 「もちろん!お願いしてもいい?」
 
 はい!と元気よく答える橋口がとても眩しく、可愛らしくも見えた。橋口は、初診である患者のカルテを抱え名前を呼ぶ。
 
 「鈴山翔太さん、どうぞ〜」
 
 (鈴山?翔太?なんか聞いたことある気がする…)
 
 背のすらっとした細身のイケメンがこちらに向かって歩いてくる。梛七と目が合った男性は、梛七を二度見し、驚いた顔で声をかけた。
 
 「梛七じゃん!久しぶり〜。俺だよ。鈴山翔太!ここで働いてたんだね〜。いやぁ〜こんなタイミングで会えるとは。嬉しいよ」
 
 明るく気さくに声をかけてきたのは、梛七と同じクラスだった高校の同級生だった。鈴山は当時、サッカー部のエースと呼ばれていて、どの学年からも人気を博していたモテ男だ。今もその時のカッコ良さは健在している。仕事の合間なのだろうか。スーツをしっかりと着こなした身なりだった。
 
 「やっぱり、翔太だよね?わぁ。びっくり!あれ?中国に行ってたんじゃなくて?」
 
 梛七はカルテを橋口から譲り受け、鈴山と会話をしながら1番チェアーに誘導した。
 別の患者の治療を終えた五十嵐は、手を洗いながら二人の様子をチラッと見ていた。
 
 「一時帰国ってとこかな。証券会社の出向は定期的にこうやって帰ってこれるんだよ。たまたまこの近くの支店に少しだけ戻れることになって、今日は企業歯科検診を受けにここへ来たんだ」
 
 「そうだったんだ。異国の地で仕事してるって、翔太は凄いなぁ〜。あ、特に虫歯とか気になるところない?あれば先生に伝えるけど」
 
 鈴山は、人差し指を顎に引っ付け、考えるポーズをしながら「特に大丈夫かな〜」と梛七に伝えた。
 
 「そうだ。近々、二人でご飯でも行こうよ。はい、俺の連絡先。どっかこの辺の美味しいとこ連れてってよ」
 
 「う、うん…ありがとう…」
 
 梛七は渡された名刺を少し照れながら受け取り、スクラブのポケットにしまった。
 その一部始終を後ろから見ていた五十嵐は、新しいグローブを嵌めたまま足を止めていた。
 五十嵐に気づいた梛七は、慌てて机にカルテを置き、患者の説明をしようと思ったのだが、五十嵐は、梛七を無視するかのように鈴山へ声をかけた。
 
 「鈴山さん、こんにちは。歯科医師の五十嵐です。今日は〜企業に提出される歯科検診でいいですか?」
 
 「あ、はい!よろしくお願いします。先生、イケメンっすね。噂では聞いてましたけど。腕が良くて優しいって会社の先輩が言ってました」
 
 「ははっ。そうですか。ありがとうございます。では、鈴山さん倒しますね」
 
 五十嵐は目の笑っていない作り笑顔を見せ、鈴山の口腔内を確認していった。
 
 「特に何も問題はないので、該当なしで記入しておきます。また何かあれば来てください。ではお大事に」
 
 普段の五十嵐は、助手や梛七に「記入しといてくれ」と言って渡してくるのだが、五十嵐は、梛七と目を合わすことなく、そのまま検診用紙とカルテを持って受付にいる藤原のところへ行ってしまった。
 
 「じゃ、梛七。連絡待ってる。またな」
 
 五十嵐のいつもと違う行動が気になりつつも、梛七は鈴山にはニコッと笑みを見せ、鈴山の姿を見送った。
 
 それからというもの、五十嵐は必要最低限のことしか梛七に話さなくなり、梛七はどうして五十嵐が素っ気なくなってしまったのか分からないでいた。近くで全貌を見ていた伊東と南は、五十嵐の分かりやすい態度に「確信を得た」と目を合わせ、二人で口元を緩ませていたのだった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 ジムからの帰り道。五十嵐は、車を運転しながら息をするかのように溜め息を繰り返した。梛七に対して、大人気ない態度をとってしまったことを情けなく思い、梛七に思わぬ嫉妬心を抱いたこと、それは好きだという感情があることを正直に自答した。五十嵐は、ずっと梛七への感情が何の部類から来るものなのか分からないでいた。親友の橘に思いを打ち明けられないでいたのもその理由からだった。ただ隣に居てさえくれればいいと身勝手に縛りつけていたのは自分の方なのに、何も分かっていなかった。いい年頃の女性が、独身の男性に食事でも行かないかと誘われても何もおかしいことはない。久しぶりに会う同級生なら尚更だ。少し照れくさそうに連絡先を受け取っていた梛七の顔が、自分には見せない女の顔になっていたことを、五十嵐は少しだけ憎らしく思った。まるで可愛がっていた飼い猫にそっぽ向かれたような気分だった。
 
 (とは言ってもなぁ…。手を出す訳にはいかねーよな…)
 
 五十嵐は立場上、自らアプローチすることは軽率だと考えた。上手くいけばいいが、いかなかった場合、梛七の今までの努力を踏み躙ってしまうことになりかねないからだ。
 家に着いた五十嵐は、ソファーにだらしなく座り、また新しい問いを自分に投げかけていた。
 
 
 ◇◇◇

 
 連絡先を貰ったはいいけど、どうしようか…。
 家に着いた梛七は、ソファーに仰向けに寝そべりながら鈴山の名刺をペラペラと眺めていた。
 そんなことよりも、梛七は今日の五十嵐の冷たい態度が気になり始める。大きなミスはしていないし、気に障るようなことしたつもりはないけれど…、と今日一日の記憶を思い返した。もしかして、私がこれを受け取ったから?と、梛七は鈴山の名刺を眺めながら、少しだけ自惚れてみるが…「いや、絶対違う」と、声に出して思考を戻した。
 
 「一緒に食事に行きたいのは、先生なのに…」
 
 梛七は独り言のように呟き、鈴山の名刺を机の隅に置いて風呂へ向かう。梛七もまた、上司である五十嵐にどのように想いを伝えればいいのか、同じく悩んでいたのだった。
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