この想い、21時になったら伝える

13. 害心と憧憬


 ◇◇◇
 
 
 先日の講演会で置き去りにされた天宮は、五十嵐と梛七の関係がどうも癪に障り、梛七の存在が目障りだと、天宮の心の中には沸々とした憎しみが芽生え始めていた。
 
 「私の腕を振り解いてまで、あの女を追いかけていくって何なのよっ!」
 
 天宮は、リビングに飾ってあった花瓶を勢いよく床に打ちつけた。激しく割れたガラスの破片が水と混じり燦然と光る。大きな音を聞きつけたお手伝いさんのキエが、慌てて天宮に駆け寄った。
 
 「お嬢様、お怪我はございませんか?」
 
 「ないわよ。もー、いーから早く掃除して」
 
 癇癪を起こしやすい天宮を幼い頃から見てきたキエは、やれやれと思いながら黙って掃除を始める。
 五十嵐に振られた後、荒れに荒れた天宮はキエや家族すらも手に負えないぐらい、そこらじゅうの物を壊し、沢山の人を傷つけていた。感情の起伏が激しく、泣いては怒ってを繰り返し、専属のセラピーをつけて大人しくなった。はずだった…。
 
 「お嬢様、何かあったのですか…?お話ならキエがお聞きしますので、物を壊すのはおやめください」
 
 天宮は下を向いて黙っていた。
 
 「ねぇ、キエ。傑をどうしたら手に入れられるの?」
 
 「あの五十嵐さまですか…」
 
 キエは、人を物のように扱うことをお辞めになったほうが…と言いそうになったが口を噤んだ。
 
 「お嬢様。新しいお方をお探しになるのはいかがでしょう…?この世には、沢山の殿方がおられます。お嬢様を心よく愛してくださる方は他にも…」
 
 「もういい。キエに話した私がバカだった」
 
 天宮はキエの話を最後まで聞かず、2階の自室へと繋がる螺旋階段を駆け上がっていく。キエは呆れ顔をし、また同じことが繰り返されなければいいと、割れたガラスの破片を拾いながら思ったのだった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 気持ちを一旦整理した五十嵐は、何事も無かったかのように、慌ただしく過ぎていく午前の診療をひたすらにこなしていった。時折、梛七に助手として入ってもらうが、仕事では意識しないよう平然を装った。
 
 
 昼休みの時間になり、藤原と佐々木が、クリニックで注文しているお弁当と、付属しているインスタントの味噌汁をそれぞれに準備していた。五十嵐と伊東はそれぞれの部屋で食べる為、助手の誰かが五十嵐と伊東へ配膳するのだが、今日は珍しく梛七が院長室へ運んでいた。
 
 コンコンッ。
 
 「どうぞ」
 
 「失礼します」
 
 梛七の声が突然聞こえ、五十嵐は立ったまま思わずパソコンのメール画面に目を向ける。
 梛七は五十嵐の部屋に入り、お弁当と味噌汁が乗ったおぼんをソファーの前にあるテーブルに配膳した。まさか梛七が来るとは思わず、五十嵐は少しだけ目を泳がせる。籠もり声で「ありがとう…」とだけ伝えた。
 
 梛七は、腹の辺りで両手をモジモジさせながら五十嵐に声をかける。
 
 「あの…先生…」
 
 「何だ?」
 
 「…私、何かしてしまいましたか…?何というか…いつもと先生の接し方が違う気がして…」
 
 
 五十嵐は、咳払いをしながらノートパソコンを閉じ、ゆっくりソファーに座って梛七を見上げた。
 
 
 「別に何もないが…。そう思わせてしまったんなら悪かった」
 
 「…い、いえ、こちらこそ…すみません。あの、何かあったら遠慮なく言ってくださいね。今日のお弁当は先生の好きな肉じゃがです。ゆっくり召し上がってください。では」
 
 
 梛七は三日月のような笑みを見せて、呼ばれた声に返事をしながら院長室を出ていった。
 
 「はぁ…。言える訳ねーだろ…」
 
 五十嵐は両手で頭を支えながら天井を仰ぐ。ゆっくり姿勢戻し、箸を持って大好物の肉じゃがを摘んだ。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 午後の診療が滞りなく過ぎ、クリニックではそれぞれが帰る準備を始めていた。梛七は今日こそ橘に恋人がいないかどうか五十嵐に聞かなければならなかった。「五十嵐先生に聞いてくれた?」と、休憩中に梢子からラインが届いていたからだ。
 梛七は女子用更衣室で白の半袖Tシャツと、黒のボリュームフレアスカートに着替え、五十嵐が来るタイミングを見計らっていた。珍しく五十嵐は院長室から出て来ず、梛七は薬品の整理がてらフロアで一人待つことにした。
 
 しばらくすると、ゆったりとした白の半袖Tシャツと、黒のアンクルパンツに着替えた私服姿の五十嵐が顔を覗かせる。
 
 「脇田か?何やってんだ?こんな時間まで」
 
 「あ!先生〜。お疲れさまです。あの…ちょっとつかぬことをお聞きしたくて…。出て来られるのを待っていました」
 
 「何だ?」
 
 五十嵐はしかめ面をしながらチェアーの椅子に腰をか掛け、鞄を床に置いた。
 
 「あの…橘先生ってお相手がいたりしますか…?」
 
 「はぁ?橘?」
 
 そんなことかよ…と言わんばかりの呆れた顔を見せる五十嵐に、梛七は何度も心の中で謝った。
 
 「お前まさか…橘のこと…」
 
 「ち、ち、違います。私じゃなくて…あの〜実は、衛生士の友人が先日、総合病院限定の東京研修に行ったみたいで…その時に橘先生をお見かけ…」
 
 「ちょっと待て。その子さ、どこの席に座ってたか分かるか?」
 
 梛七は目を見開き、五十嵐が食いついてきたことに驚いた。すぐに梢子にラインを入れて返事を待つ。すぐに既読がつき、「一番前」とだけ返事が返ってきた。
 
 「一番前だそうです」
 
 五十嵐は「ははっ」と笑い、こんなにも近くにいるもんなんだな〜、と何かを言い当てたかのように顔を綻ばせた。梛七はきょとんとしたまま首を傾げ五十嵐に尋ねる。
 
 「何かご存知だったんですか?」
 
 「あぁ〜悪ぃ悪ぃ。実はな、橘もその子を探してたんだ」
 
 「ふぇっ?」
 
 驚きすぎて喉から変な声が漏れる。梛七は思わず手で口を塞ぎ、本当ですか〜、と目を輝かせた。
 梛七はこの事実をすぐに梢子にラインで伝え、五十嵐も橘に電話をかける。早急に連絡先を交換したいという橘の願いを叶えるべく、梛七は五十嵐を通じて梢子の連絡先を橘に伝えた。
 
 「あとは二人でやるだろう」
 
 「はいっ!ありがとうございます!先生。上手くいくといいなぁ〜」
 
 「あいつとなら上手くいくだろ。俺と違って橘はマメだから」
 
 五十嵐は椅子から立ち上がり、鞄を持ってスタッフ通用口まで歩いていく。梛七も五十嵐の後を追いかけ、上履きを脱いだ。靴を履くまで、ドアを持って待っていてくれた五十嵐の顔が、夏の夕暮れに照らされ妙に優しく映る。通用口のセキュリティーをセットしながら梛七は五十嵐に続きを尋ねた。
 
 「先生は、マメじゃないんですか?」
 
 「どうだろな…。女とあまり付き合ったことねーから、分かんねー。次は、結婚する女としか付き合わねーって決めてるから、そうなったらマメになるかもな」
 
 梛七は、五十嵐の誠実さにまた惚れてしまいそうになるが、ハードルがまた一つ上がったような気持ちになり、思わず立ち止まってしまう。
 
 「乗っていくか?送ってやるぞ」
 
 梛七の方を振り向いて尋ねてくる五十嵐に、梛七は素直に甘えてみることにした。五十嵐が天宮のことを打ち明けてくれたあの日から、梛七は堂々と五十嵐の横にいてもいいんだと思うようになった。引け目を感じる必要も、極端に肩を狭める必要もない。梛七は、少し顔を緩ませて助手席に乗りこんだ。相変わらず綺麗にされていた車内からは、新品の芳香剤に変えた時に感じる、まだ馴染みきっていない強い香りが、空中を漂っていた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 五十嵐の車を降りた梛七は、五十嵐の運転する車を見送った後、マンションの入り口に設置されているポストを開けて郵便物を取り出した。いつものように差出人の欄を確認していたら、一通だけ何も書かれていない白い封筒を見つける。不思議に思った梛七は家に持ち帰ろうと階段を登り、玄関の鍵を開けた。リビングに入り、筆記用具の入った引き出しからハサミを取り出して、封筒の端を切り落とす。開封し中身を見ると4つ折りにされたA4の紙が入っていた。
 恐る恐る取り出して紙を開いてみると、パソコンで打った文字でこう書かれてあった。
 
 『次は容赦しない』
 
 梛七は、天宮の仕業だろうとすぐ確信した。こんなことをするような恨みを持つ人間は天宮しかいない。遂に自宅まで把握されてしまったのか…と、怯えるところなのだが、梛七は意外にも冷静だった。
 何かあった時の証拠として保管しておこうと、梛七は鞄からiPhoneを取り出し、写真を撮る。紙は封筒に戻し、書類を保管している引き出しに仕舞った。
 
 梛七はこのことを五十嵐に伝えようか悩んだが、天宮だと決まった訳ではないし、憶測で犯人扱いをするのはよくないと思い、一旦保留にした。握っていたiPhoneをキッチンのカウンターに置いて、梛七は手を洗って夕食の準備を始める。冷蔵庫で冷やしておいたサーモンの切り身と薬味ねぎと卵を取り出し、大好きなサーモンユッケ丼を作って気を紛らわせた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 街路樹のサルスベリは赤々と色づき、炎天下に晒されたアスファルトからは、じりじりと陽炎が靡いている。梛七の住んでいる地域では、外に出た瞬間から汗ばんでしまう猛暑が、連日のように続いていた。
 
 『暑いねぇ〜』
 
 クリニックに来る馴染みの患者たちは受付にいる藤原と、挨拶をするかのように言い合っている。
 
 夏場は、冷たい物を食べる機会が増え、知覚過敏を訴えて来院する患者が多い。特に若年層に多く見られ、学生や主婦の患者が普段よりも目につく。
 
 「下川さん、こんにちは。歯科衛生士の脇田と申します。少しお話しをお伺いしたいのですが━︎━︎━︎━︎ 」
 
 梛七は、赤ちゃんを抱えた下川さんに声をかけ、初診の問診票を受け取った。
 人見知り凄いんですけどね〜、という言葉が嘘のように、赤ちゃんは機嫌よく梛七に笑う。梛七も「カワイイね〜」と言って赤ちゃんに笑みを返した。
 赤ちゃんを抱っこした下川さんを1番チェアーに案内し、五十嵐を待ちながら梛七は問診票に書かれていた内容を詳しく聞き出す。
 
 「昨日アイスを食べたら、左上の奥歯が痛くなって…。産後ってのもあるのか…口内炎も増えて色々と不調なんです」
 
 「そうだったんですね…。産後の体質変化で口腔環境が崩れてしまって、歯の不調を訴えてこられる患者さんも多くいらっしゃいます。もしかしたらそういうケースかもしれませんね…」
 
 下川さんの膝に乗っていた赤ちゃんは、周りにある物に興味津々でキャピキャピした声を出していた。
 
 「あの…、診察中は脇田さんにこの子をお願いしてもいいですか?とても懐いているみたいなので」
 
 「もちろんです。私が抱っこさせていただきますね」
 
 五十嵐が歯科用グローブ嵌めながら、1番チェアーにやってくる。梛七は赤ちゃんを抱き上げ、五十嵐に問診票に記載してあることと、産後の不調であることを伝えた。
 赤ちゃんは五十嵐を見るなり目を輝かせ、五十嵐に抱っこを求めているかのように、「あー」と声を出して両手を広げている。
 
 「ごめんな〜、お母さんの診察が終わったら抱っこしてやるな」
 
 五十嵐はそう言って、下川さんのチェアーを倒した。
 梛七は赤ちゃんを抱きながら、院内をぐるぐる回り、助手たちに声をかけたり、技工室に入って歯の模型を見たりした。藤原にいないいないばぁをしてもらったり、受付をしていた常連の患者さんに「あれ?ななちゃん子供産んだんか?」と間違えられたりしながら、上手にあやしていた。
 
 しばらくして梛七は五十嵐のところへ戻り、「楽しかったね〜」と言いながら赤ちゃんを下川さんへ渡す。赤ちゃんはやっぱり五十嵐に抱っこされたい様子で、五十嵐の方を一生懸命向いて全力で両手を広げていた。
 
 「今回の知覚過敏のような痛みは、恐らく産後から来るものだと思います。特に虫歯とかそういうのではなさそうなので…あ、抱っこしましょうか」
 
 五十嵐はグローブを取り外し、椅子に座ったまま、両手を広げていた赤ちゃんを抱っこした。キャッキャと声を出して喜ぶ赤ちゃんに、五十嵐は優しい笑みを見せ、下川さんへ説明を続ける。
 
 「定期的に様子を見させてもらえたらと思うので、また2ヶ月後ぐらいに来てください。この子も一緒に来てもらっていいんで。な?また会おうな」
 
 五十嵐は、赤ちゃんと目を合わせ、優しく赤ちゃんの頭を撫でていた。
 
 そんな微笑ましい姿を横で見ていた梛七は、五十嵐と結婚できる女性は羨ましいと思った。あんな風に子供をあやし、慈しむ姿を独占できるのだから。
 五十嵐は、下川さんへ赤ちゃんを渡し「では、お大事になさってください」と言って次の患者の待つチェアーへ向かった。梛七は、下川さんを待合室へ誘導し、もう一度赤ちゃんを抱っこさせてもらった。
 
 

 午後の診療も滞りなく終え、掃除をしながらスタッフ同士の談笑が始まる。受付のレセプトを手伝いながら梛七は藤原と技工士の柚木と8月下旬にある、夏まつり花火大会について話をしていた。
 
 「夏まつり、今年は凄い人だろーね〜。みんな行くの?」
 
 レセプト書類をまとめながら藤原が全員に尋ねる。
 もうそんな時期かぁ〜と思いながら、梛七は藤原から受け取ったレセプト書類をそれぞれの患者カルテに挟んでいく。
 
 「私は彼と行く予定です。わっきー先輩は?」
 
 技工士の柚木が、受付の壁に貼ってあるカレンダーを見ながら梛七に尋ねる。「いいなぁ〜彼と行くとか」と藤原は羨ましそうに柚木を見ていた。
 
 「私?ん〜たぶん、行くなら女友達とかかな?彼氏とかいないからさぁ」
 
 梛七はカルテを平仮名順に揃えながらボソッと言う。
 
 「わっきー先輩めちゃくちゃ可愛いのに、何で彼氏作んないんですか?」
 
 痛いところを突かれ、梛七は思わず吹き出す。
 それを見ていた藤原はクスッと笑う。藤原は知っているのだ。梛七は五十嵐のことが好きだということを。「ほんとにね〜もったいない」と言いながら、藤原は梛七を横目にパソコンを触り始める。
 
 「ん〜、何でだろうね〜あはは」
 
 梛七は濁しながらカルテを平仮名順に揃っている棚へ仕舞っていく。彼氏のいる柚木には、5年も片思いしている人がいるとは言えなかった…。
 梛七はいっぱいに詰め込まれている"す行"の棚に、最後のカルテを無理矢理入れ込んだ。
 
 「みんな、お疲れさま」
 
 「あ、五十嵐先生お疲れさまです」
 
 五十嵐の低い声が聞こえ、梛七はハッと振り向く。五十嵐と目が合い、お疲れさまです、と言葉を発して梛七はまた棚に目を向けた。
 柚木が珍しく五十嵐に話しかけ、興味本位で尋ねる。
 
 「先生は、夏まつり誰かと行かれるんですか?」
 
 「俺?俺は行かねーよ」
 
 五十嵐は柚木の質問をあっさりと返す。
 藤原に「相変わらずつまんない男ですね〜」とツッコミを入れられ「だって人混み無理だもん。俺」と五十嵐は会話を付け加えた。
 
 「じゃ、つまんねー男は先帰るよ。後はよろしくな、お疲れさま」
 
 そう言って五十嵐は、手を振りながらスタスタとスタッフ通用口まで歩いていった。
 
 手を繋ぎながら花火を見るなどという淡い夢は一瞬で消え去り、梛七は潔く諦めた。必ず来るであろう梢子たちからの連絡を大人しく待つことに決め、梛七は更衣室のロッカーを静かに閉めた。
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