一つの夜が紡ぐ運命の恋物語を、あなたと
 彼はもう冷め切っただろうコーヒーのカップを持ち上げると、グイッと傾ける。それから大きく息を吐き出し、それをソーサーに戻した。

「……俺は、その話しを兄貴に聞かせた。仲が悪いわけでもなかったしな。それに、俺一人で抱えきれなかった。……そのとき俺たちはまだ学生で、その相手を探す術など持たなかった。やっとその人の名前がわかったのは数年後。兄貴がこの病院に医師として勤め始めてからだ。あの言い争いのあった時期に突然辞めた看護師が一人だけいた。それが……佐保さんだ」

 そうだ。樹は自分の母は看護師だったと言っていた。病気で亡くなったことが強く印象に残っていたからか、そちらの繋がりにまで思い至らなかった。
 昔を思い出しているのか、視線を落としたまま、彼は口を噤んでいる。次に口を開いたのは、大智の母だった。

「その話は怜志さんから聞いていたの。当時私はここの事務員で。そのとき古株の事務員さんがいたんだけど、その人が佐保さんと仲が良かったみたいなの。子どもを産んだらしい、その人はそう言っていたけれど、どこでどうしているのかまではわからず終い。……まさか、こんな形で出会えるなんて」

 とても不思議な気分だった。
 自分が大智と出会わなければ、樹と彼らが出会うこともなかった。まるでギリギリ繋がっていた細い細い糸が、巡り巡って手繰り寄せられたような、そんな気持ちだった。

「たっちゃんが……どこまで自分の出生にまつわる話を知っていたのかはわかりません。前に自分のことを話してくれたとき、父が誰なのか、最後まで教えてもらえなかったって……言っていました。たぶん、峰永会に関係する誰か。それくらいしか知らないと思います」

 ふと思い出したことを口にする。大智の叔父は、樹によく似た顔をこちらに向け「そうか……」と呟いた。

「いずれにせよ、彼が聞きたくないと拒否しない限り、全て話すつもりだ。その上で謝罪したい。そんなことで、彼の気持ちが収まるわけはないだろうが、それでも……」

 苦しげな表情を見せた叔父に、自分は樹の顔を思い出しながら続けた。

「そうして……下さい。私が灯希を産んだとき言われたんです。父親が誰かなのか、教えてやってくれって。きっと自分を重ねたんだと思うんです」

 樹の気持ちが簡単に収まることはないかも知れない。けれど少しでも、それが解ければいい。
 それが今の、自分の願いだった。
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