桜ふたたび 前編
澪は茫然と歩いていた。
思考回路は完全に停止している。ただ背後からの無言の圧に押されて、否応なく足が前へと進んでいた。
「行き止まりだ」
パチン、と指を鳴らされたように、澪は肩を跳ね上げた。
目の前に揺れる千鳥の提灯。ちょうど〈里〉の店門だった。
「この店?」
うなづきかけて、ギョッとした。
彼はもう、麻暖簾を掻き分け、格子戸に手をかけている。
「あ、あの……?」と、顔を向け、息を詰めた。
鴨居の高さに上体を屈め、顔を振り向けたセクシーな唇が、触れる程の位置にある。
ドキドキと胸の鼓動が相手に伝わってしまいそうで、頬が熱くなる。彼の体から甘い香りがして、何だか頭がぼんやりしてしまう……。
「助けられた礼をしたい」
「いえ、助けては──」
「巻き込んだ、と言ったほうが正しいか」
男は、一人で言ってひとりで納得している。
「あ、でも……、それは……」
「何か問題でも?」
ニコリともせずに言うから、尋問されている気分になってしまう。
──これは一種のナンパなの? それとも、何か勘違いされるようなことを、わたし、した? さっき目を合わせてしまったから……? まさか? でも、相手は外人さんだし……。
男の手が、エスコートするように背中に触れて、澪は声にならない悲鳴を上げた。
それでも飛びかけた思考を引き戻し、頑張って背筋を突っ張り無言の抗拒を示したけれど、相手は涼しい顔で、先を譲るように「どうぞ」と手のひらを前へ伸ばすのだった。
──はっきりと言葉にしないと、外人さんには伝わらない?
元から口下手で、断り下手で、日本人相手でも誤解されてしまうのだ。
ここは強い姿勢で断らなければ!
ヨシッ、とあるたけの度胸を振り絞り、
「あのぉ──」
振り仰いだとたん目が合って、あわてて顔を戻した弾みで、敷居を越えてしまった。
狭い間口だ。澪が動かない限り、彼は戸を閉めることができない。
春とはいえ、冷たい夜風が足下に流れ込んでくる。
春風に急かされるように、澪は奥へと進んだ。
たまたま偶然、同じ店に入っただけ──自分にそう言い聞かせて──。