桜ふたたび 前編
「あれ? でも、彼、婚約してはったんと違《ちご》たっけ? クリスティーナ・ベッティと」
澪は神妙に首を垂れたまま、小さく答えた。
「あの記事は、デマだって」
「デマ? 誰が言うたん?」
「ジェイが」
「う~ん……まあ、そう言うやろねぇ」
お冠を覚悟していたのに、予想外の口調。
澪は千世の顔色をうかがうように目を上げた。
澪を見つめる目は、むしろ気の毒そうな色。
「ニューヨークと京都やったら、そう逢えへんやん?」
「え? あ、うん。でも、日本での仕事もあるから、月に一度くらいは──」
「月に一度ぉ?」
千世は声を裏返らせた。
そして、眉を寄せ顎を引き、
「電話とか、くれはるの?」
「時差があるから……。メールなら」
「メールぅ?」
周囲を憚らぬ大きな呆れ声に、隣のカップルが興味津々に耳を欹てている。
「それ、恋人って言えんの?」
こういう千世の容赦のない正直さに、澪は心地よささえ感じてしまう。
澪とて、つき合ってはいるけれど、それが〝恋人〞と呼べるとは思っていない。
英語圏には〝デーティング〞という恋人前のお試し期間があって、そこからお互いの同意で〝ステディ(正式な交際相手)〞になるという文化があるらしい。
ジェイからも、つき合いはじめに〝デーティング〞という言葉は聞いたけど、澪がステディに格上げされることは、絶対にないだろう。
欧米育ちの彼の〈アイ・ラブ・ユー〉は、留め書きのようなもの。澪を好いてくれているだけで、 日本人の〈愛している〉とは違う。
だいいち、誰が見ても選り取り見取りの彼が、澪を気にかけてくれる理由がわからない。
好奇心? 気まぐれ? 勘違い?
だからって、〝セフレ〞かも、とは口が裂けても言えない。
「それに、クリスティーナ・ベッティのことはデマやとしても、ああいう世界の女性と、知り合う機会がぎょうさんあるわけやん? 平気? 浮気とか、心配にならへんの?」
「浮気?」
会えない時間に、彼が誰といるかなど、澪は想像したことがなかった。
クリスのことも、ただの友人ではないとは察していたけれど、自分が知っているジェイとは別人の話のようで、あれ以来気にかけたこともない。
たとえ、彼に他につき合っている女性がいたとしても、それが重大事だろうか。