桜ふたたび 前編
「実際、これから就職活動再開じゃ、きついでしょう?」

「実は、ユースの先輩から新規事業を手伝ってくれへんかって誘われてるんや。スポーツ関連の仕事で面白そうやし、大手やからって今回みたいに潰れるときには潰れるしな。けど、母さんはブランドにこだわるんよな」

「それは──」と言いかけて、澪は口を噤んだ。

「あちらさんへのライバル意識?」

澪は弱ったように作り笑いした。

「あっちは、東京芸大出てY響やて。僕のワールドカップ出場の夢も消えてしもうたし、澪が大学にいかへんかったこと蒸し返して、よけい意地になってるんや。父さんが、何かにつけて母さんのこと、高校も出てないって言うもんやから」

澪は目を落とした。

母は、澪に対して異常なほど教育熱心だった。
〈自己主張も自尊心もない、何の取り柄もない役立たずは、せめて人様の迷惑にならないように、勉強しなさい〉というのが、澪に対する母の口癖だ。
学歴に対する世間の偏見もあっただろうし、佐倉家への体裁や、愛人に対するライバル意識であることは、子どもながらに察していた。

「澪、ほんまは美大に行きたかったんやろ?」

「……」

幼い頃から絵を描くことは好きだった。いくつかの賞ももらったけれど、健全な精神はスポーツによって培われると持論の父の関心は得られなかったし、母は芸術家を憎んでいたから、美術大学推薦の打診があったとき、まるで新興宗教の勧誘に遭ったが如く一蹴してしまったのだ。
それでも説得を試みた美術部顧問に対して、〈芸術なんて金持ちの道楽、何の役にも立たない〉と、母は嫌悪と軽蔑で追い返してしまった。何かと気にかけてくれた優しい先生だったのに、澪に関わったために、嫌な思いをさせてしまった。

母は是が非でも進学させたかったようだけど、澪は就職を選択した。学費の心配もあったし、もとより早く自立してあの家を離れたかった。上賀茂の建設会社を志望したのも、実家からの通勤には不便で、社員寮があったからだ。
最初で最後の反抗だった。

「お母さんは、鎌倉にお願いするって言ってたよ? いずれは悠ちゃんが継ぐんだからって」

「稲山のジジイがご健在なうちは無理やて。じいちゃんもまだ現役やし、少し外で揉まれた方がいいって、伯母はんに言われた。そやけど、いくら地元の政治家やからって、愛人の実家に気を遣う意味がわからん」

忌々しげにコロナビールをラッパ飲みする悠斗に、澪は申し訳なさそうに小さな息を吐いた。
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