桜ふたたび 前編
ふいに、哀憐の情が湧いた。
だがそれは、母親を思慕する気持ちとは異なる感情だ。
彼女から生後間もない赤ん坊を略奪した首謀者は、祖父だ。
AXの礎を築いた英傑だが、その分、闇は深い。
ジェノヴァで隠居生活をしつつ院政を敷き、誰も彼の意に背くことはできなかった。
きっと、あらゆる手段を講じて、ゾウがアリを踏みつぶすが如く、完膚なきほど相手を押さえ込んだに違いない。
事情を理解したうえで、それでも、母が子を捨てた事実は重い。
裏を返すと、角張った筆跡で、たどたどしいローマ字の住所が書き記されていた。
──亡くなっていたか。
哀しみはなかった。短い人生だったが、最良の伴侶を得て幸せだっただろう。
そう安堵している自分に気づいたとたん、心の囲いがふと外れ、そこから熱いものがこみ上げて来るのを感じた。
──ああ、彼女は死んだのだ。
「ありがとう」
呟くような感謝の言葉は、女将にではなく、亡くなった母親へ手向けられたように、澪には思えた。