桜ふたたび 前編
善福寺のマンションに戻ったとき、母はいきなり〈役立たず!〉と澪を打った。
その日から、母は些細なことで澪を折檻するようになった。
澪の訛りがイライラさせるようで、澪は次第に無口になった。
泣くと〈うるさい〉とまたぶたれるので、澪は泣かなくなった。
母にはそれがかえって気に入らなかったのか。〈薄気味悪い〉と弟の玩具を投げつけられ、額が割れた。
澪のおでこの生え際には、そのときの傷が今でも残っている。
病院で虐待を疑われて、それ以来、澪は前髪を上げたことがない。
母は二度と国立へは行かなかった。
ただ、電話の前に座り、ダイヤルボタンを押しては無言で切るようなことを繰り返していた。
中学一年生の大晦日。母は澪を連れて、入水自殺を図った。
未遂に終わったことで、娘への殺人未遂と警察沙汰になった。
大手家電メーカーに勤めていた父は、東京本社から京都の営業所への左遷を命じられた。
この事件をきっかけに父と璃子の関係がどう変わったのか、澪にはわからない。
ただ、それ以来、父が家を空けることは少なくなった。
あのとき、母は本気で死ぬ気だったのか──。
年の瀬、実家での新年会に出席するために家を出たはずの父が、国立にいたことを母は知っていた。
遺書には、尽くした男にもその家族にも裏切られ、生きているのが辛いと書かれていた。
彼女が死場所に選んだのが鎌倉の海だったのは、故郷の海が恋しかったのか、それとも佐倉家への意趣返しなのか、澪にもわからない。
ただ、海育ちの彼女は、泳ぎが得意だ。
あの夜──
凍ついた真冬の海で、死を覚悟して縋るように握りしめた澪の手を、母は振り払って置き去りにした。
寒さと恐怖で痙攣した娘の体が、波にのまれてゆくのを知りながら。
祖母が亡くなって、娘を出しに無心していた母にとって、澪は利用価値がなくなった。
だから、いらなくなった娘を犠牲にして、愛人と新年を迎えようとする夫を取り返そうとしたのだろうか。
いずれにせよ、母は危険な賭けに勝ったのだ。
誤算だったのは、最期のメッセージを見て駆けつけた父に、助けられるのは自分だけのはずだったのに、優秀な救助隊のせいで、〝娘を亡くした悲劇のヒロイン〞になり損ねたことだろう。
ここでも澪は、〝役立たず〞だった。