桜ふたたび 前編
“ごめんなさい。どんどん扱いにくくなって……”

二日酔いなのか、エヴァはこめかみを押さえ顔を顰めている。話し方が真怠いせいで、息子の無礼を詫びているようだけどどこか他人事だ。

それからは、澪には重い、ふたりには当然のような、沈黙。微かな食器の音だけが響いていた。パンを飲み込む喉の音さえ聞こえてしまいそうで、なかなか食べづらい。

唯一、給仕係だけが、停滞した空気を動かしていた。
チョコレート色の肌の彼は、昨夜、部屋に晩餐を用意してくれた青年だ。厚い唇はホッチキスで止めたように閉ざされているけれど、その代わり真っ白な白目の中の大きな黒い瞳も、インパラのように長い耳も、よく働く。
コーヒーを注いでくれる彼に、澪が「グラッチェ」とお礼を言うと、驚いた目をして、細マッチョな体を海老のように屈めて壁際に退いた。

エヴァは大量のタブレットを流し飲むと、ナプキンで口元を拭った。
心得たようにインパラが椅子を引く。彼女は挨拶もなく席を立った。

そのまま去るのかと思っていたら、インパラが開けた扉の前で足を止め、

“パーティーは1時からよ”

誰に言うでもなく呟いて、振り向かない幽霊のように扉の向こうへ消えていった。

澪は複雑な思いで、ジェイを盗み見た。
家族の在り方を澪が言えた義理ではないけれど、兄嫁と甥といっても身内なのに、まるで赤の他人のようだ。

あのパーゴラは、彼が一番好きな場所だと言っていた。冷たい部屋を飛び出して、水平線のかなたを見つめる孤独な少年の姿が目に浮かぶ。
こんなに豪華な屋敷なのに、人が生活していないかのようにひんやりとしているのは、静かさのせいだけではないのだろう。
奢侈な生活と引き替えに、失ってしまったものがあるのかもしれない。
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