桜ふたたび 前編
大広間に足を踏み入れたとたん、浮彫装飾の天井を仰ぎ見たまま、澪は固まった。

聖霊降臨を描いた見事なフレスコ画。日本なら間違いなく重要文化財。とても家蔵できる代物ではない。

床にはアラベスク模様のペルシャ絨毯。大理石の壁面には金額縁に納まった絵画や巨大なタペストリー。中央には、クリスマスカラーのクロスが掛けられたリフェクトリーテーブルと装飾椅子。

どれもバロック期の逸品のようで、傷でもつけたら大惨事だ。

それなのに、ゲストたちは立ったまま平然と、バカラのグラス片手に歓談している。
艶やかなチェンバロの周りで子どもたちがじゃれ合って、澪をハラハラさせた。

人々の輪の中心には、朝とは別人のようなエヴァの姿があった。
ボディーラインに吸いつく薔薇柄のカクテルドレス。美しい女主人として、華やかな微笑みを振りまいてはいるけれど、やはりふとした横顔が空虚で、どこか退廃的に見える。

その輪が、ジェイの登場にとたんに崩れて彼を襲った。
澪はあっという間に、巨体の壁にはじき出されてしまった。
誰もが我先にと、ジェイにバーチ(イタリア式のキスの挨拶)や握手を求めている。

唖然とする澪の頬を、白薔薇が撫でた。
驚いて振り返った澪は、いきなりチュッと唇を奪われて、二度驚いた。

恭しく白薔薇を捧げるその瞳は、エーゲ海の碧。

《Bon Natale.señorita.》

澪は恥ずかしくてあごを引いたけど、怒ってはいなかった。
優雅でおしゃれで、お茶目な騎士のような人。なぜか憎めない。

そのアレクの背後から、

「ジェイは、アレクが帰国していることを、ミオに言った?」

ひょこりと覗かせた笑顔に、澪は思わず目を伏せてしまった。
とても、ルナの目を直視できなかった。

「いいえ……」

いきなりふたりは爆笑した。

なにが笑いの種だったのかはさて置き、重くのしかかっていた雲が、笑い声で吹き飛ばされた気分。
ほんとうにアレクは、人を和ませる達人だと、澪はつくづく感心する。

イタリア男の礼儀か、それとも性分か、アレクはせっせとスプマンテを調達してくる。
その道すがら女と見ればためらいなく声をかける節操のなさを、「まるでカサノヴァ」とルナに皮肉られても、本人はむしろ得意げな顔をした。

『ミオはいつまでイタリアにいるって?』

『2日に帰国するって言ってたわ』

《じゃあ、カポダンノ(年越しパーティー)は、今年もローマか……》

アレクは意味深な笑顔を澪に向ける。
〈なんでしょうか?〉と小首を傾げる澪の肩を、目を細めて引き寄せた。

《触るな!》

澪はギョッとした。紺碧の瞳のなかに、黒髪の男が映っていた。
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