桜ふたたび 前編
冷淡な声に、ルナの唇がピタリと閉じた。
悪ふざけのつもりがつい暴走してしまった。ここから先は危険だと、戦場に身を置く野生の勘が働いた。

ルナが多くの休日をジェノヴァの屋敷で過ごしたのは、徹底した淑女教育を強いる母の監視から逃れられる唯一の場所だったこともあるが、寄宿舎から帰省するジェイと会うのを楽しみにしていたからだ。(ローマに帰省するアレクが必ず一緒だったけど)。

彼らとの冒険のような毎日は心躍った。
馬で野山を駆け回り、罠を仕掛けて野うさぎを捕え、小舟を漕いで釣りもした。

いつも勝負を挑んで、でも何ひとつ勝てたことがなかった。
考え抜いた悪戯も、何なく返り討ちにされてしまった。

返り討ちなどと生易しいものではない。彼は、攻撃してきた相手には容赦なく倍返しにいたぶるのだ。相手が女子供であろうが、泣こうが喚こうが謝ろうが、追い詰めて愉しむ真性のサディストだ。

忘れもしない、昔、アレクたちとクリスマスホリデーをクーシュベルで過ごしたときのこと。夜のうちにジェイのスキー板にたっぷりとワックスを塗っておいたことがあった。
転ぶところを見てやろようと、他愛ない子どもの悪戯だったのに、翌朝、気づいたら2700mの山頂に置き去りにされていた。

視界を悪くする見計らったかのような降雪、死ぬほど転び、恐怖で泣きながら下山する妹の脇を、兄はいくども軽快に滑り降りて行った。
見かねたアレクが助けてくれなければ(それも計算のうちだろうけど)、きっと遭難していただろう。

それでもしつこくチャレンジしたのは、ジェイが好きだったからだ。
美しく優秀な自慢の兄に、初恋にも似たあどけない憧れを抱いていた。
それは今でも変わらない。だからこそ、心配だった。
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