桜ふたたび 前編
“お前のガールフレンドが、死にかけているぞ”

不遜な物言いに、ジェイは書類をめくる手を止めて首を捻った。
ジェノヴァの家の着信通知に、反省した澪が恋しくなって電話をかけてきたのだとほくそ笑んだのに、この声は──。

“シモー?”

彼が電話をかけてくるとは、前代未聞の椿事だ。

“どうした?”

“だから、女が死にそうだって報せてやってるんだ!”

“澪が? なぜ死にそうなんだ?”

シモーネが誰かを怒鳴り倒している。すぐに若い女のおろおろとした声に替わった。

“あの、マリアです。ミオ様がひどい熱で苦しんでいらっしゃるんです。一昨日の夜から何も食べていらっしゃいませんし、フェビオは昨日からお休みで、どうしたらいいのかと……”

マリアはエプロンの裾を揉みしだき、怖ず怖ずと具申した。

目の前では、熱に魘された澪が烈しい息づかいで胸を波打たせている。何度声をかけても、焦点の定まらぬ虚ろな目をぼんやりと開くだけ。
母さんが死んだときもこんなだったと、マリアは不吉なことを思い出した。
そう思うと、降りはじめた雨さえもあの日と同じだ。

それにしてもどうしよう。あれほどくれぐれもと命令されたのに。やっぱりクビだろうか。
お給料は安いけど、モンティさんの賄い食は美味しいし、宿舎の環境も抜群で、こんなにいい働き口はもう見つからないだろう。

先先代から親子二代、アルフレックス家に仕えるファビオは厳しいけれど、それは自分がドジだからで、仲間はみな親切で優しい。
奥様は使用人を叱ったこともない方だし、旦那様は三年前に一度お顔を拝見しただけ。大旦那様はお目にかかったこともない。先日、大奥様が突然いらっしゃたのには、ファビオも顔色を変えたくらいだ。(滞在時間はたった十五分だったけど)。妹様は滅多に来られないし、弟様は突然ふらりと戻られたと思ったら気づいたときにはいなくなっている。

一番厄介な坊ちゃんは……、今回はどういう風の吹き回しか助けてくれた。
だから、寄宿舎から戻られる間だけなら、あの癇癪もなんとか辛抱できる、かも、と思ったのに。

失業したら故郷のマナローナ村へ帰ろうか。
でも、家には父の新しい奥さんと五人の異母妹弟たちがいて、今さら自分の居場所などない。
< 189 / 298 >

この作品をシェア

pagetop