桜ふたたび 前編
『澪は、感受性が強く対人関係には臆病だが、思慮深く、あれでいて頑固だ。浮き草に見えて、実は地中深く根を張っている。腐敗した泥沼のなかでも、白い花のままでいられる』
『ミオが蓮の花なら、あなたは孤独な白鳥ね。澄ました顔で泳いでいても、水の下では必死に脚を掻いている』
『何が言いたい?』
『あなたは、ミオに疲れた心を癒してもらいたいだけなのよ。あなたのエゴイズムで、静かな水面を掻き乱して花を摘もうとするなんて、赦されないわ』
ジェイは思わず目を瞬いた。
澪は泉だ。彼女に触れると、なぜか懐かしい優しい気持ちになる。虚栄が洗われ、素の自分が浮かび上がる。
細やかで温かく清らかな泉の水は、傷ついた心を癒やし、心の底に積もった澱を静かに浄化してゆくのだ。
それゆえに、心に闇を抱える者ほど彼女に惹かれる。
そして彼女自身も、無意識に闇に惹きつけられる。
それに気づいたルナもまた、心を病んだ孤独な白鳥なのか?
『あなたはミオを守れるの? 彼女のために、すべてを捨てる覚悟があるの? 今までの女たちのように使い捨てにするのなら、解放してあげなさいよ!』
『君が口出しすることじゃない』
冷ややかな声に、ルナの唇がピシッと結ばれた。
悪ふざけのつもりが、つい暴走してしまった。ここから先は危険だと、戦場に身を置く野生の勘が働いたのだ。
ルナが休日の多くをジェノヴァの屋敷で過ごしたのは、厳格な母の監視から逃れられる唯一の場所だったこともあるが、なにより、寄宿舎から帰省するジェイに会えるのが楽しみだったからだ。(ローマに帰省するアレクが必ず一緒だったけど)。
彼らとの毎日は、冒険のように心躍った。馬で野山を駆け回り、罠を仕掛けて野うさぎを捕え、小舟を漕いで釣りもした。
いつも勝負を挑んで、でも何ひとつ勝てなかった。
考え抜いた悪戯も、何なく返り討ちにされてしまった。
返り討ちなどと生易しいものではない。
彼は、攻撃してきた相手には容赦なく倍返しにいたぶる。相手が女子供であろうが、泣こうが喚こうが謝ろうが、追い詰めて愉しむ真性のサディストだ。
忘れもしない──。
クーシュベルで過ごしたあるクリスマス。ジェイのスキー板にこっそりワックスを塗っておいたことがあった。
ちょっとした悪戯心だったのに、翌朝、2700メートルの山頂に一人置き去りにされた。
降りしきる雪。視界は悪く、転び続け、恐怖で泣きながら下山するその横を、兄は何度も軽やかに滑り降りていった。
見かねたアレクが助けてくれなければ(それも計算のうちだろうけど)、きっと遭難していただろう。
それでもしつこくチャレンジしたのは、美しく完璧な兄に、初恋にも似た憧れを抱いていたから。
それは今でも変わらない。だからこそ、心配だった。