桜ふたたび 前編

澪は膝に両手をつき、肩で荒く息をした。
動転して思わず追いかけてきてしまったけど、入り組んだ路地はただでさえ向こうに地の利があるのだから、澪の足で追いつくはずがなかった。

──落ち着いて。落ち着いて。
パスポートは部屋に置いてきたし、現金もそんなに入れていない。問題はクレジットカードとスマホ。──とにかく交番を探そう。

と、そのとき、バシャッと頬を叩く大粒の雨。空を見上げた瞬間、土砂降りの雨が落ちてきた。
人々が蜘蛛の子を散らすように走り出す。

「うゎぁああ～」



どこをどう走ってきたのか……。
雨宿りの軒下で、ようやく小さくなった雨だれを見上げて、澪は茫然とした。
すっかりジェノヴァの旧市街地に入り込んでしまっている。

ジェノヴァは中世、〝海洋王国〞として華々しい繁栄を極めた町だ。
黄金期の名残のパステルカラーの建物と、近代的なビルが、ひしめき合って建っていて、旧市街地は渦巻き状の迷路になっている。

方角もわからない。道案内をしてくれそうな犬もいない。濡れた体を冷たい風が容赦なく吹きつける。
澪は仕方なく、両腕を抱いて歩きはじめた。

一時間後。
澪は町角の二階の壁に祀られたマドンナ像を見上げて、絶望的なため息をついた。

太陽も差し込まぬ狭い路地。かび臭い匂いとツタが絡まった白壁の建物は、どれも同じに見える。歩けば歩くほど、深みにはまってゆくようだ。

──ここもたぶん、三回目。

町はほとんどが休業中。クリスマス休暇か、それともゴーストタウンなのか。
傾いた看板、外れかけた文字、ひどく荒んで見える。道の先では、赤いネオンサインが発作を起こしたように点滅していた。

──お金もない、スマホも身分証もない、言葉もわからない。ああ、もう、最悪！

目の前を黒猫が横切った。

滅入りきった心にとどめを刺されたようで、澪はその場にしゃがみ込んだ。

今、なん時だろう？　屋敷の人たちも心配している。
こんなことがジェイの耳に入ったら、きっと猛烈に叱られる。一人で出かけることを、あれほど反対していたから。

──どうしてわたしは、こうなんだろう。いつも誰かに迷惑をかけてしまう……。

《Che cosa e' succeso?（どうかしました？)》

澪はハッと目を上げた。
若い女性が、腰を屈めて覗き込んでいた。

褐色の肌、後ろで束ねた黒髪、黒シャツに黒いソムリエエプロン。一瞬、さっきの黒猫が人に化けたのかと思ってしまった。

女は、私の縄張りになにしに来たと言いたげに、澪を見下ろし、

《'e giapponese?（日本人？）》

「Si……」

やおら澪の腕をむんずと掴んだ。