桜ふたたび 前編

3、海にかかる虹

夜半から、ジェノヴァは篠突く雨になった。
昨夜まで子守歌のように聞こえていた葉擦れの音も、撥のような雨声に蹴散らされている。

終焉の大洪水でも起こりそうな不吉な予感に怯えているのは、異国の地でひとり伏せる心細さからだ。
もし、ここにジェイがいてくれたなら、たとえ人類滅亡を告げられても、恐れはしないだろう。

──でも、あんなに怒らせてしまって……。

澪は絶望的な気分になった。
彼のフィアンセだと嘘をつくような女だと、ジェイに誤解されたことが悲しかった。
それ以上に、フィアンセと名乗られたと彼が憤激したことがショックだった。

結婚を望んでいるわけではないけれど、彼の口から完全否定されるとさすがにへこむ。
現実を突きつけられて落ち込むなんて、やはりどこかで夢見ていたのだろうか……。

何も望まないと誓ったはずなのに、ブレーキをかけようとしても、なぜか想いは加速してゆく。

一日ごとに一時間ごとに一秒ごとに、声が訊きたい、会いたい、抱きしめられたい、愛されたい、ずっとそばにいたいと、どんどん欲深くなってしまう。

理性と感情とエロスがスパイラルして、暴発したり暴走したり、もう手に負えない。
自分で自分がどうしたいのか、庭のメイズより、街の迷路より、もっと複雑なラビリンスにはまり込んでしまったみたい。

この苦しさは、熱のせい? 恋のせい? 医者の注射も薬も、ちっとも効いていない。

──あ……あ、ジェイに逢いたい……。

朦朧とした意識の向こうから、呼びかける声がした。

澪は気疎い瞼を開けた。
美しいアースアイが心配そうに覗き込んでいた。
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