桜ふたたび 前編

~Amapola, Iindisima amapola, Ser'a siempre mi alma tuya sola~
(アマポーラ、美しいひなげし、わたしの魂はずっと君だけのもの) 

ブリリアントなテノールは、繊細でもの哀しい。どこかノスタルジックで、しみじみと心に共鳴する。
大男たちも、子守歌でも聴くように静かに目を閉じ耳を傾けている。

演奏が終わると、みな口を揃えて《Bravo!》と拍手が鳴り続いた。

「すごくきれいな声ですね。感動しました」

ヒデは、アンコールの声をホールドアップでやり過ごす。
ルイーザに向かって少なくなったジョッキを持ち上げ見せながら、言った。

「ここに来るまでは、ミラーノのコンセールヴァトリオで声楽の勉強をしていたんです」

「オペラ歌手の方でしたか」

苦笑いの目は、なぜか深く沈んでいた。

「今では冴えないクラブ歌手です。これでも、何度かコンクールで入賞したんですけどね。
でも、ここはコネ社会です。大舞台に立つためには、伝手と金が必要になる。それに──」

ヒデは、底に残ったビールを苦そうに飲み干し、続ける。

「ヨーロッパで人権活動が活発なのは、彼らに有色人種に対する潜在的差別意識が存在する裏返しです。特に芸術やプロスポーツの世界では、顕著だ。スタートラインに立つ前から邪険に扱われ、優秀であればあるほど、ガキのような嫌がらせに耐え続けなければならない。
……僕は、乗り越えられずに挫折した口です。それなのに、未練がましくまだこの国に留まっている」

そう言って虚しく笑うヒデに、澪はなにも言えなかった。

嵐の夜、ジェイは言った。
〈後悔するのなら、前に進む方を選べばいい。たとえ失敗しても、道はいくらでも選び直せる〉

けれど、現実に打ちのめされたとき、ただ夢見ていた頃よりも、受ける傷は深い。
努力して、努力して、さまざまなものを犠牲にしても、成功しなければ〈努力が足りなかった〉と自分を責める。
敗北感と後悔、なにより、過去への未練と将来への焦燥感にいつまでも苦しむ自身への怒り──。

現実を知った彼は、もう以前には戻れない。
夢見ることの歓びまで失われて、だからといって、あっさり違う道を選び直せるほど、人間、そんなに強くも器用でもない。

ジェイはきっと、挫折を知らないのだろう。
敗北を知らない。後悔を知らない。

それは、とても危険な気がする。
走り続けるサラブレッドは、一度の躓きが致命傷になりかねないから。
< 195 / 313 >

この作品をシェア

pagetop