桜ふたたび 前編
“どういうつもりだ?”

アレクは声に出して独白した。
ただでさえ心許ない澪を、嵐の防波堤の上に放ったらかすような、危険極まりない状況に置いてゆける神経が理解できない。

憤るアレクの前に、次の高波がやってきた。

『Bonsoir』

森を抜けるビオラのような美声に、アレクは万事休すと頭を抱えた。

シェリル。トゥヘッドのストレートヘアとグレーの瞳を持つエルフのような美女は、パリ出身のスーパーモデルだ。その神秘的なオーラから、シャンソン歌手、詩人としても活躍している。
モノトーンのボディコンシャスなスレンダーラインは、九身頭のしなやかな曲線美でなければ着こなせまい。腰骨までのサイドスリットから、透けるような白い美脚が覗いていた。

『Bonsoir 先日はありがとう。素敵なショーになったわ』

シェリルはシルヴィと頬を寄せ合うと、

『ご紹介するわね』

傍らの男は長身で筋骨隆々、坊主刈りに褐色の肌、目つきが鋭く手が人並み外れて大きい、ポルティエーレ(ゴールキーパー)。

『こちら、ラッツオのマッテオ。彼はアレク、ローマの建築家。彼女はシルヴィ、ミラーノのファッションデザイナー。それから──』

シェリルはコトリと小首をかしげた。一つ一つの造りが整いすぎていて、箱から出されたばかりのフィギュリンのような無機質な印象を与える。

『ミオ、ジェイの恋人よ』

アレクは絶句した。
シルヴィはジェイとシェリルの関係を知っている。それなのに、澪の正体をばらしてどうする。何か秘策でもあるのか? 女の考えることは理解に苦しむ。

シェリルは微かに薄い眉を上げ、澪を見た。
澪はと言うと、まるで憧れのスターを前にした子どものように、スーパーモデルとセリエAの人気プレーヤーに見とれている。
頼むからこのまま何事もなくスルーしてくれよと、アレクは心の中で両手を合わせた。

『そう、ジェイの……。彼は?』

『さっき、趣味の悪い中国女に浚われてしまったわ』

『彼女を置いて?』

『ええ』

『相変わらずねぇ』

放心状態の澪に、シェリルはまるで空気のように頬を寄せた。

アレクは思わず目を背けた。
きっと今夜のシェリルの頬は磁器のように冷たいだろう。
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