桜ふたたび 前編

澪は胸の寒さに、ぐっと身を縮めた。
視界の隅で揺れる冬薔薇の影が、まるで足元に開いた暗い穴から伸びる手のように見えた。

虚しい。その虚しさは、足元の穴から這い上がって来る。
その先に光はなく、風もない。
真空に引き込まれるように、澪は身を屈めた。

──覗いてはいけない。

澪はハッと顔を上げた。

穴の奥にあるのは、心の底のパンドラの箱だ。開けた瞬間、魑魅魍魎が飛び出して、精神を蝕んでゆく。
ドロドロとした感情の虜になって、母のように愛の亡者と化してしまう。

なにも望まないと決めたはず。幸せも望まない。愛も求めない。夢も見ない。
それなのに、浮かれて誓いを忘れていた。

視線の先に、アポロンに求愛されるダフネの像があった。
美しいダフネにクリスの姿が重なって、澪は頬に手をやった。

クリスとシェリルの肌の感触が、まだ残っている。
なにも知らず一人舞い上がっているバカな女に、彼女たちはどんな気持ちで頬を寄せたのだろう……。

〈あなたはジェイの邪魔〉

言葉が蠱毒となって、心臓に噛みついた。

目を逸らしていた真実がそこにある。
そう、彼にとって澪は〝必要な存在〞ではない。いずれ邪魔になり、捨てられる。

──わかっていたのに……。

澪は頭を抱えて、心の中で必死に念じた。

──今すぐ抱きしめて。愛してるって言って。そしたらきっと、この苦しさも、不安も、あっというまに消えてしまう。
助けて、ジェイ!
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