桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
 
どこをどう走ってきたのかわからない。石畳の廊下をただ逃げた。頬に突き刺さる夜風の冷たさだけが、現実を教えていた。

気づくと、澪は中庭にいた。

ロマネスク回廊に囲まれたパティオ。冬薔薇が夜気に冴えた笑みを浮かべている。
水音だけの静寂に、アポロンとダフネが戯れる噴水が、キラキラと月代を弾いていた。

澪は冷たいベンチに力なく腰を下ろした。
静けさに不似合いな、烈しい息づかいが響いている。

ふと見上げた夜空に、歪な上弦の月が揺れていた。歪んでいるのは、涙のせいか。

なんのための涙なのか。哀しいのか、悔しいのか、情けないのか。自分でも整理がつかない。
感情の断片がバラバラに浮かんでは沈み、澪の胸の中で渦を巻いた。

──泣いちゃダメ。他の人に気づかれる。

澪は口と鼻とを両手で覆い、大きく胸を膨らませて息を吸い、涙を押し戻した。
気道が凍るほどの空気の冷たさに、澪は両腕を抱きしめて、背中を丸めた。

メイファの言葉は、おそらく事実だろう。
そのことに、これほどショックを受けるとは、澪は思ってもいなかった。

誰も心を束縛することはできないのだから、ジェイに付き合っている人が他にいても問題ない……はずなのに、この裏切られたような惨めさはなんだろう。

──愛していると言ったのに。

澪は頭を振った。

ジェイが澪に向ける想いが、人が〝愛〞と呼ぶものとは、基底の部分で食い違っていることに、澪は気づいていた。

彼が澪に求めているのは、ジグソーパズルの欠けたピースの代用。彼自身それと自覚せずに、生母の面影と、養母の慈愛を澪に見ている。

彼の澪に対する〈愛してる〉は、孤独な心の渇きを潤すための、〝エゴ〞だ。

だからこそ澪は、彼の聖母マリアにも、マグダラのマリアにもなって、彼が心の奥底に沈めている冷たい孤独を、温めてあげたいと思った。寂しい者同士が傷口を舐め合うように。

──これも愛じゃない。エゴだ。
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