桜ふたたび 前編
クリスは、大きく肩で息をした。
《そうね……。私もあなたも、立ち止まることは許されないのだもの。
立ち止まれば追い越され、自分の存在は無用になる。後ろを振り返った瞬間に、すべてを失ってしまいそうで、強迫観念だけが私を進ませている》
《失ったら、また手に入れればいい》
《あなたは、失うことが怖くないの?》
《ない》
クリスは虚しく笑った。
《あなたは、生まれたときからすべてを手にしていたからよ。
誰もあなたのように強くは生きられないわ。みんな、多かれ少なかれ、未練と後悔を背負って生きている。……私のように》
顔を上げたその表情は、すでに女優のものに戻っていた。
《大丈夫。少し、疲れただけ。──あなたがキスしてくれたら、すぐに治るわ。あなたの可愛い恋人が、許してくれたらだけど》
夢遊病者のようにパティオから引き返してきた澪は、微かな連射音にふと顔を上げた。
──なぜ、見てしまったのだろう。
ギャラリーのベンチで、恋人たちが抱き合っている。
青い月光をスポットライトのように浴び、美しい物語の挿絵のように、ジェイの唇がクリスの唇に重なったとき──新年を告げる大量の花火が、夜空に打ち上がった。
光と音の渦が、ローマの街を呑み込む。
澪のなかで、なにかが崩れ落ちる音がした。