桜ふたたび 前編
言葉を探すアレクの横で、シルヴィは諭すように言う。

“ジェイ、小鳥を飼うにもそれなりの準備が必要よ。愛情だけでは死んでしまうわ。明日の別れが辛いのはわかるけど、もう少し冷静になったら?”

そうだそうだとアレクは頷いた。

“感傷で言っているわけじゃない。澪をニューヨークへ連れて行くことは、以前から考えていたことだ”

とにかく澪の住まいは狭い、天井が低い、シングルベッドはきつい。日本の住宅事情をうさぎ小屋に例えられるが、あれは事実だった。
何より、隣室のテレビの音が漏れ聞こえるような薄っぺらい壁では、澪は音を立てることも声を上げることさえも憚って抑えてしまう。
イタリア滞在中の数日で、こちらが翻弄されてしまうほど、澪が情熱的になったのは、他人の目や耳から解放されたことも起因しているのだ。

それに、ベッドの中に限らず、澪は感受性が強く順応力に優れている。
彼女が知らない広い世界で、この世の美しいものだけを観せ、美しい音だけを聴かせて、美しいものだけに触れさせれば、どれほど歓ぶだろうと、ジェイは真剣に考えていた。

“あなたが留守の間は、誰が彼女を守るの? 日本ならまだしも、言葉の通じない国で、彼女は独りよ”

“留守中に猫に襲われるかもな”

“脅かすなよ”

ジェイは頼りなく笑った。
今まで二の足を踏んでいたのは、ニューヨークでの生活が半分だと言っても、一年中移動を繰り返すロマのような生活をしている自分を、澪がひとりで待っていられるかという不安があったからだ。

“いざとなったら、鳥かごを持って歩く”

“ジェイ、恋人はペットではないのよ”

シルヴィはピシャリと言った。彼女は辛辣な批評家だ。保身のために言葉を濁して逃げたりしない。

“彼女を大切に思うなら、彼女のカラーを尊重して、不安材料を一つ一つ丁寧に取り除いていってあげないといけない”

アレクはうんうんと頷いた。

“お前はデリカシーに欠けるところがあるからなぁ”

確かに女心に疎いひとだわと、シルヴィは珍しくアレクに賛同した。

“あまり強引すぎると、小鳥はフラストレーションが溜まって逃げてしまうわよ”

──それで上手くいっているのだから、いいじゃないか。

ジェイは心の中で反論してそっぽを向いた。その視線の先に、不思議そうな澪の瞳があった。

──そう、上手くいっている。澪のことは誰よりもわかっている。

“飼えなくなったら俺が引き受けてやるよ”

シルヴィに蔑むように睨まれて、アレクは“冗談だよ”と肩をすくめた。
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