桜ふたたび 前編
四畳半の座敷は、元は茶室だったのか、炉を切った跡がある。枯淡な趣で、〈無事是貴人〉の軸がかかった床の間には初春らしく結び柳、床柱には青竹の一輪挿しに白い侘びすけが活けてあった。

窓の外は雪に変わった。雪見障子の向こうに、部屋の灯りに重なるように、雪華が緩やかに揺れながら庭へ落ちてゆく。耳を澄ますと、遠く微かに機音が聞こえた。

「一見さんお断りで静かな店やし、たまにひとりでふらりと来て、庭を眺めながら食事さしてもうてるんや」

柚木は知っているのだろう。けれどもきっと、何も聞かない。ただ黙ってそばにいることの優しさを知っているひとだ。

積もらぬ雪影を見つめる澪の胸に、懐かしさが去来した。
柚木とつき合っていて、背伸びすることはなかった。いつも澪の身の丈に合わせてくれた。一緒にいると穏やかに時が流れた。

──誰と比べているの?

澪は、目の前の優しさに縋ろうとした自分を嘲た。

騒々しかった周囲も表面上は平静を取り戻した。けれど、一度ついた汚点はそう易々とは消えるものではない。世間の澪に対する視線には、毒婦を見るようなよそよそしさがあった。

あからさまに蔑視の礫を打つ者もいた。嫌味なのか偽善なのか、周囲に目を配りながら気の毒そうに声をかけてくる者もいた。好色な女だと噂を本気にして、肉体関係を迫られたこともあった。
何よりも、取り立ててくれていた桂に、顔を背けられたことが辛かった。

榊だけが態度を変えず、彼のおかげで仕事が続けられていたのに、得意先にも噂が広まったらしく、今日、社長直々に呼び出され、当分の自宅待機を命じられた。このまま解雇になるのかもしれない。

今はまだ、吹き戻しの風が吹いている。でも、人の噂も七十五日、台風は遠去かりやがて消滅する。彼らが新たな関心事を見つけるまで、息を殺して待つことに、澪は苦痛を感じてはいない。

ただ、疲れていた。
一晩に何度も夢を見ては目が覚める。睡眠不足のせいか、耳鳴りと目眩がひどく、ときおり自分の体から魂が浮遊しているような錯覚を覚えた。

「──か?」

「え?」

目を上げると、心配そうな柚木の顔があった。

「どこか具合でも悪いのやないかな?」

湯葉まんじゅうの餡かけ、甘鯛の柚庵焼きと、どれも澪の好物ばかりなのに、箸が進んでいない。

「最近、寝不足で……」

「今夜はもうお開きにしよう。早く帰って休んだ方がよさそうや」

柚木は深刻な表情で立ち上がった。
日本酒をお猪口に一口呑んだだけなのに、澪の顔には、赤と白の斑模様が浮かんでいた。
< 242 / 298 >

この作品をシェア

pagetop