桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀

四畳半の座敷は、元は茶室だったのか、炉を切った跡がある。
枯淡な趣で、床の間には〈慶雲生五彩〉の軸と結び柳。青竹の一輪挿しに、白い侘びすけが活けてあった。

窓の外は雪に変わった。
雪見障子の向こうに、部屋の灯りに重なるように、雪華がゆるやかに揺れながら小さな庭へ落ちてゆく。
耳を澄ますと、遠く微かに機音が聞こえた。

──柚木は知っているのだろう。
けれどきっと、何も聞かない。ただ黙ってそばにいることの優しさを、知っている人だ。

積もらぬ雪影を見つめる澪の胸に、懐かしさが去来した。

柚木とつき合っていて、背伸びすることはなかった。いつも澪の身の丈に合わせてくれた。一緒にいると穏やかに時が流れた。

──誰と比べているの?

澪は、目の前の優しさに縋ろうとした自分を嘲た。

騒々しかった周囲も、表面上は平静を取り戻していた。
けれど、一度ついた汚点は、そう易々とは消えるものではない。世間の澪に対する視線には、毒婦を見るような冷ややかさがあった。

あからさまに蔑視の礫を打つ者もいた。
嫌味なのか偽善なのか、周囲の目を気にしながら、気の毒そうに声をかけてくる者もいた。
好色な女だと噂を真に受けて、肉体関係を迫られたこともあった。

なによりも、取り立ててくれていた桂に、顔を背けられたことが辛かった。

榊だけが態度を変えず、そのおかげで仕事が続けられていたのに、得意先にも噂が広まったらしく、今日、社長直々に呼び出され、当分の自宅待機を命じられた。

今はまだ、吹き戻しの風が吹いている。
でも、人の噂も七十五日。台風は遠去かりやがて消滅する。
彼らが新たな関心事を見つけるまで、息を殺して待つことに、澪は苦痛を感じてはいない。

ただ、疲れていた。

一晩に何度も夢を見ては、目が覚める。
睡眠不足のせいか、耳鳴りと目眩がひどく、ときおり、体から魂が浮遊しているような錯覚を覚えた。

「──か?」

「え?」

目を上げると、心配そうに覗き込む柚木の顔があった。

「どこか具合でも悪いのやないかな?」

湯葉まんじゅうの餡かけ、甘鯛の柚庵焼き。どれも澪の好物ばかりなのに、箸が進んでいない。

「最近、ちょっと寝不足で……」

「今夜はもう、お開きにしよう。はよ帰って休んだ方がよさそうや」

柚木は深刻な表情で立ち上がった。

日本酒をお猪口に一口呑んだだけなのに、澪の顔には、赤と白の斑模様が浮かんでいた。
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