桜ふたたび 前編

5、別れの曲

ホテルの部屋で、ジェイはジタバタする澪を拘束するように抱き締めた。

千世を脅して澪を引っ張り出したまではよかったが、直前に危険を察知したのか、カフェの入り口でいきなり踵を返すから、仕方なく人目も憚らず強引に担ぎ上げてきたのだ。ここまできても、澪は立ちはだかる体をすり抜けてドアへ向かおうとした。

「心配した」

ジェイは息を吹きかけるように耳元で囁いた。
伸びすぎたゴムが切れたように抵抗が止んだ。澪は耳への刺激に弱い。

しめたと腕の力を緩め、あと数㎝というところまで唇を寄せたとき、澪はハッと瞼を開いた。

「千世が待ってる。早く行ってあげないと」

出鼻をくじかれ、ジェイは苦笑いを浮かべた。

「不足していたカフェの支払いは、もう済ませてあるよ」

アッと澪はジェイを見た。
どんな形であれようやく目が合ったのに、彼女は逃げるように下向いてしまった。

連れ戻された家出娘の心境なのか、泣き出す前の苦しげな表情をする澪を、抱えるようにソファーに座らせ、ジェイはやるかたない息を吐いた。

「クリスのことは、あれは事故だ」

「事故?」

澪がやっと顔を上げた。

「クリスは以前から執拗なストーキングに悩んでいた。そのために雇っていたボディーガードを、彼女が独断で解雇したそうだ。故郷のSardegnaに向かう途中、ストーカーとパパラッチとカーチェイスになって、ハンドリングを誤ったらしい」

ベッキーからマスコミ対応について相談を受け出向いた病室で、クリス自身の口から聞いた事故のあらましだ。
真相を明かさなければ、疑心暗鬼になっている澪を納得させることはできない。そのためには、他人のプライバシーにも触れなければならないが、こうなっては格好をつけてはいられない。

「ボディーガードを突然解雇した理由は、Romaで恋人と逢うはずだったからだ。クリスは彼と結婚を約束をしていたのに、男はX'mas に家族の元へ戻ったきり、約束の日を過ぎても現れなかった。カポダンノでは、かなりアルコールも入っていたし、裏切られたと精神的に不安定になっていた。クリスはプライドが高い。ああいう特殊な世界だから虚勢を張っているが、本当は孤独なんだ」

いつもなら親身になる澪が、微かに口端を歪めたように見えた。

「澪が私を信じられなくなった原因が、彼女との関係にあるのなら、悪かった。過去のことを説明する必要がないと思ったからだ。確かに、彼女とは肉体関係があった。他にも関係を持った女性はいる。だけど、誰も愛したことはなかったし、誰も愛してはくれなかった。愛して、愛されたのは、澪がはじめてだ」

澪は俯きがちに目を伏せて、反応を見せない。
ジェイは澪の手を握りしめ愛情を込めて言った。

「澪、愛してる、心から、君だけを」

澪の瞳が揺らぎながら、ゆっくりと自分に向けられるのを見て、ジェイは安堵の笑みを返した。
そのときまで絶対の自信があったのだ。釈明して誤解が解ければ、澪の気持ちも氷解すると──。

「別れてください」
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