桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
「すみません」
澪はしきりに謝った。
タクシーのなかでも、蒼白な顔に冷や汗を浮かべ、寒そうに震えていた。
アパートへ帰る彼女の足取りが蹌踉と覚束なくて、心配になった柚木が部屋まで送ってきたのだ。
「水、持ってくるから、横になっときなさい」
柚木は、洗面所の棚からタオルを下ろし、冷蔵庫からミネラルウォータを取り出して、コップへ注いだ。
タオルの畳み方も、冷蔵庫の食材の配置も、食器の収め方も、何もかも昔と同じだ。
ただ違うことは、酔って介抱されたのは、いつもこちらの方だった。
ソファに休む顔を心配そうに見守る澪の瞳に、あの頃どれほど心癒されただろう。
──もう一度、やり直せるだろうか。
脳裏に浮かんだ埒もない未練に、柚木は自嘲した。
ならば、あのとき、すぐに澪の元へ向かうべきだった。
人知れず子どもを産もうとしていた澪が、妻の事件に断念したことは、菜都から聞かされた。
だからもう、捜さないでやってくれと、彼女に懇願された。
世間体や保身に走った己を、呪いもした。
それでもまだ離婚できない男の、何と不甲斐ないことか。
「水、飲める?」
ベッドで胎児のように丸まっていた澪を抱き起こし、柚木は口元へコップを運んだ。
重なった手の冷たさに、胸が痛んだ。
──この様子では、報道の煽りを食って、恋人ともうまくいってへんのやろうな。
たまたま耳にした女子社員たちの雑談によると──
情報源は元社員で、旅先のローマで澪と写真の男に出会ったらしい。
その従妹か何かが澪の現同僚だというから、世間は狭い。
それにしても、個人情報を平気で、というより得意げに、世間に晒して恥じないのだから、情報社会のモラル欠如には寒気を覚える。
だいいち、ローマの女性が澪だとしても、週刊誌と同一人物とするのは早計ではないか。
臆病で、人を傷つけることを何よりもおそれる澪が、恋人を裏切りアバンチュールなど、有り得ない。
偶然、話題の有名人が写真に映り込んでいただけだろう。
彼氏も、流言に惑わされず、どうして信じてやれないのか。
こんなときでも泣けない澪が、不憫だった。
「澪──」
思わず肩を抱き寄せたとき──不意に背中に冷たい気配を感じた。
「すみません」
澪はしきりに謝った。
タクシーのなかでも、蒼白な顔に冷や汗を浮かべ、寒そうに震えていた。
アパートへ帰る彼女の足取りが蹌踉と覚束なくて、心配になった柚木が部屋まで送ってきたのだ。
「水、持ってくるから、横になっときなさい」
柚木は、洗面所の棚からタオルを下ろし、冷蔵庫からミネラルウォータを取り出して、コップへ注いだ。
タオルの畳み方も、冷蔵庫の食材の配置も、食器の収め方も、何もかも昔と同じだ。
ただ違うことは、酔って介抱されたのは、いつもこちらの方だった。
ソファに休む顔を心配そうに見守る澪の瞳に、あの頃どれほど心癒されただろう。
──もう一度、やり直せるだろうか。
脳裏に浮かんだ埒もない未練に、柚木は自嘲した。
ならば、あのとき、すぐに澪の元へ向かうべきだった。
人知れず子どもを産もうとしていた澪が、妻の事件に断念したことは、菜都から聞かされた。
だからもう、捜さないでやってくれと、彼女に懇願された。
世間体や保身に走った己を、呪いもした。
それでもまだ離婚できない男の、何と不甲斐ないことか。
「水、飲める?」
ベッドで胎児のように丸まっていた澪を抱き起こし、柚木は口元へコップを運んだ。
重なった手の冷たさに、胸が痛んだ。
──この様子では、報道の煽りを食って、恋人ともうまくいってへんのやろうな。
たまたま耳にした女子社員たちの雑談によると──
情報源は元社員で、旅先のローマで澪と写真の男に出会ったらしい。
その従妹か何かが澪の現同僚だというから、世間は狭い。
それにしても、個人情報を平気で、というより得意げに、世間に晒して恥じないのだから、情報社会のモラル欠如には寒気を覚える。
だいいち、ローマの女性が澪だとしても、週刊誌と同一人物とするのは早計ではないか。
臆病で、人を傷つけることを何よりもおそれる澪が、恋人を裏切りアバンチュールなど、有り得ない。
偶然、話題の有名人が写真に映り込んでいただけだろう。
彼氏も、流言に惑わされず、どうして信じてやれないのか。
こんなときでも泣けない澪が、不憫だった。
「澪──」
思わず肩を抱き寄せたとき──不意に背中に冷たい気配を感じた。