桜ふたたび 前編
「京都に住んでるんだって?」
「あ……うん……」
「実はあたしも、高校退学になってからしばらく、親戚がやってる祇園の小料理屋を手伝ってたんだ。偶然ここの青年団が慰安旅行で来たことがあってさ、こっちじゃ風俗嬢ってことになってた。驚くわ~」
玲が茶化したのは、件の噂を耳にしているからだろう。
噂話は残酷な伝言ゲームだ。
どこかで少しずつ脚色され、面白おかしく内容を書き換えられてゆく。
結果、誰かが傷ついても、耳打ちした者に罪悪感はない。訊いた情報に少しだけ、やっかみや妬みや嫉みというスパイスを利かせて、次へ送っただけ。
そこに悪意はなかったと、誰もがみな無自覚に思っている。
「あたしには碌でもない思い出しかない町だけど、ばあちゃんも年だしね。ひとりは心配だから、お母ちゃんと火之神公園にカフェレストランを開いたんだ」
「カフェのオーナー? すごいね」
「死んだ亭主の太っぱらな両親が、孫のためにって軍資金出してくれてさ」
「ご主人……亡くなられたの?」
「レース中の事故でね。オートレーサーだったんだ」
さぱさぱと言うけれど、愛する人を失った哀しみは計り知れない。
ルナの慟哭は、今も胸が痛んで辛い。
「同情とかな〜し。これでもあたしは今、幸せだから」
素直に頷く澪に、「そういうとこ、変わってないね」と、玲は独り言のように呟いた。
「そりゃあ、彼を亡くしたことは辛かったけど、代わりに大地を遺してくれたしね」
「強いね、れーちゃん」
玲はふふっと笑って、遠く水平線に目を細めた。
「昔はさ、捨てた男の子どもなんて何で産んだんだって、お母ちゃんを恨んだこともあった。命なんてどうでもよくなって、ずいぶん悪さもしたよ。
けどねぇ、彼と出会って、大地を授かって、〈ああ、生まれてきてよかった〉って、感謝できるようになったんだ。
大地にもそう思ってもらえるように、あたしは父親の分も強くなって、立派な漢に育てなきゃならないって思ってる。
人間、守る者ができると強くなるんだよ。みーちゃんにもいるんだろう? 守りたいひと」
澪はハッとした。
──守りたいひとがいる。
そうだ、澪は〝守りたい〞のだ。ジェイを。あらゆる悲しみ、苦痛、孤独から。
世界中が彼に背を向け、天が彼を見放しても、自分だけは彼を守る。──それが澪の願いだ。
だから信じて待ち続けよう。
きっとそれが、何も持たない澪が、彼のためにできる唯一のことだから。
そして、彼が疲れて振り返ったとき、必ず抱きしめてあげられるように、自分も上を向いて歩いてゆこう。
澪は指輪を確認すると、頭上高く飛ぶ大鳥を見上げた。
ピヨヨ〜と鳴きながら、鳥は青空の彼方へと消えていった。