桜ふたたび 前編

[お待たせしましたか?]

ビブラードのかかった穏やか声は、いかにも温厚で善良なパリ市民。

レオは、紙袋を脇に置き、ジャケットのポケットから折れたレーシングプログラムを取り出して、テーブルの隅にさりげなく置いた。
ウエイターに片手を上げ、

[ロンドン土産にアスコットへ行ってみたのですが……。いやぁ、今日はついてなかった]
『ああ、アールグレイとブラウニーをお願いします』

燕尾服のウエイターが、〈フレバーティーなど邪道〉とでも言いたげな顔をして小さく頷いた。
同じ紅茶好きでも、英国人は味を愉しみ、フランス人は香りを愉しむ傾向にある。

[しかし、ロンドンの天気はまったく読めませんね。傘を持って出るべきでした]

[サンタバーバラはどうだ?]

[お陰様でいい骨休めです。娘たちもヴァカンスに来ることになりました]

[それで、ハロッズで買い物を?]

レオは紙袋から覗くクマのぬいぐるみに目をやり、照れ笑いを浮かべた。

彼は、クローゼとの交渉決裂の責任を負わされ、AXを解雇された。
現在はアメリカ西海岸のサンタバーバラで、長年酷使し続けた体を休めている。

エヴァが所有するヴィラだが、彼女は気前よく、というか無関心に、二つ返事で使用を許可した。
この数ヶ月間にAXを襲った変事に、関心がないのか。夫に知れれば譴責されると、わかってはいるだろう。

レオは、運ばれた陶器のティーポットから紅茶を注ぎ、花柄のティーカップに鼻先を近づけた。
ベルガモットの香りが、雨に濡れた石畳を想わせるように静かに立ちのぼった。

[みなさんは、お元気ですか?]

[相変わらずのようだ]

リンは、ジェイの後任としてCOOに就任したAXグループの元CFO(最高財務責任者)、スーザン・バーノルズのアシスタントとして残った。

ニコは未だ休職中だが、ジェイ帰還の報に、理学療法士のカレに支えられながら、驚異の回復力でリハビリに勤しんでいる。

[……しかし、退屈することはないでしょう?]

レオの口元が、カップの向こうでニヤリと笑った。

一瞬、ふたりの視線が重なって、彼らは同時に窓へ顔を背けた。

ちょうどタワーブリッヂが跳開し、一艘の貨物船が、霧雨を割って静かに通り抜けていくところだった。
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