桜ふたたび 前編

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『競馬に行かれていたのですか？』

ジェイの手元のレーシングプログラムを見て、秘書が初めて親しみの笑みを浮かべた。

この副社長室の以前の住人は、かなりうるさい趣味の持ち主だったようだ。19世紀英国貴族の邸宅を思わせる部屋に、ブリテッシュアンティークの調度品。壁面には歴代ダービー馬のパネルがずらりと並んでいる。

秘書は少々得意気に、運んできたダージリンティーをデスクへ置いた。

『Mr.アルフレックスは、幼少期にイートンで学ばれたとお聞きしました。やはりレースとポロは、英国紳士のたしなみですものね』



秘書が退出したのを見届けて、ジェイはレーシングプログラムを開いた。

巧妙に貼り込まれた超小型ＵＳＢをＰＣに差し込み、紙面に暗号化されたパスワードを探して打ち込む。

ここに、レオが寝食を惜しんで収集した情報が収められている。
ジェイを襲った狙撃犯の素性。情報漏洩の協力者。彼らが犯行に至った動機と経緯。そして、そのすべてを統べる黒幕の存在。

狙撃犯ヤシン・アベイドは、マルセーユ出身のアルジェリア系フランス人。チネチッタで清掃業のアルバイトをしていた頃、撮影所のレストランで働くウエイトレスと恋仲になった。

彼女がハリウッドに渡り、〈クリスティーナ・ベッティ〉と名を変えてからは、一ファンとして見守っていたが、ジェイとの交際が報じられたあたりから、ストーカー行為に走った。

クリスの行く先々に〝夫〞として現れる彼に定職はなく、事件当時の所持金は０。
それなのに、ニューヨークへはファーストクラスに搭乗し、襲撃当日までマンハッタンの最高級ホテルに宿泊していた。

クリスの事件後、自死を考えた彼の前に、〝赤い髪の女神〞が現れて、〈妻の仇を取りなさい〉と諸々プレゼントされたとの供述も、妄想として片づけるには、ところどころのリアリティが引っかかる。
押収された自動拳銃が、ロシア軍使用の通称グラッチ（ミヤマカラス）というのも、暗示めいていた。

いずれにせよ、彼は精神鑑定のすえ無罪となり、精神科医療機関で無期限の強制入院となる見込みだ。
これで、クリスの憂惧は完全に消えた。