桜ふたたび 前編

ふたりの前に、トックブランシュのシェフが現れた。
一礼され、一礼を返す澪に、なぜかジェイは再び顔を背ける。
無作法だったのかとおろおろする澪の前に、シャンパンのグラスと前菜が運ばれてきた。

「出かけたりは? 友人や恋人(・・)と」

動揺を引きずったまま、澪はふるふる頭を振った。

と、そのとき、ふっと息が漏れるような音が聞こえた。拳を口元に当てたジェイの肩が、わずかに揺れている。

不思議そうに見つめる澪に、向けられたのは──初めて目にする彼の笑顔だった。

胸を射抜かれるような衝撃。媚薬に包まれるような幸福感。
我を忘れ、息を詰めてつい見惚れてしまう。

──きれいなひとは、笑ってもきれい。

ジェイは、笑顔のままシャンパングラスを目の高さに掲げた。

「今も、ぼーとしているのかな?」

澪はハッと緩んだ目を開いた。ぼーとではなくぽぉ(・・)としていた。
気恥ずかしさに狼狽えて、取り繕おうとして声が裏返った。

「あ、きょ、今日は、あの、どんな御用でしたでしょうか?」

ジェイはグラスを口元へ運びながら平然と、

「君に会いに来た」 

ぼっと、火が吹きそうに顔が熱くなる。

澪は、頬の赤さを隠すように顔を背け、いやいやと首を振った。

彼は外国人だ。言葉の選び方が少し変なだけで、深い意味はない。
おそらく先斗町のときと同じ、一人でレストランに入るのは気が引けて、〝いい時間つぶし〞の相手を探していたのだろう。きっと他の誰かに断られて、澪にお鉢が回って来ただけ。

それでも澪は嬉しかった。こんな自分でも、忘れずにいてくれて。

鉄板の上では、フォアグラ、鮑、伊勢エビ、牛フィレと、高級食材が絶妙のタイミングで焼き上げられてゆく。
食欲をそそる香ばしい香り、見ているだけで時間を忘れる優雅な手さばき。そして──極上の笑顔。

心までじっくりと温められてゆくような、そんな浮き立つ気持ちを、澪は感じていた。
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