桜ふたたび 前編

3、慈雨

菜都は、屋上のガーデンテーブルを拭く手を止めて、さっきまで丹色の篝火を点していた大文字山に目をやった。
そこには漆黒の闇があるだけ。
ああ、今年も夏がゆく。
五山送り火のあとは、京都人を少しセンチメンタルにさせる。

「お疲れ、なっちゃん。後は明日、僕が片付けるよ」

子ども部屋から戻ってきた一馬は、炭火を入れた水バケツを覗いて、消火具合を慎重に確認している。

菜都と一馬は、出会った頃と変わらず〈なっちゃん〉〈かずくん〉と呼び合っている。

あの頃、菜都は父の体面を潰すことばかり考えていた。強制とはいえ彼の友人の会社でアルバイトを始めたのも、恥をかかせてやろうと幼稚な魂胆があったからだ。
当然、社会常識を無視した少年院上がり(実際は更正施設だけれど)は、周囲から腫れ物のように敬遠された。新人指導係などと厄介事を押しつけられた澪だけが、やる気のない相手に根気よく、何度も何度もバカみたいに丁寧に、コピーのとり方から教えてくれたのだ。

一馬と出会ったのはそんなとき。入り浸っていたクラブが火災に遭い、九死に一生のところをレスキュー隊員の彼に救出された。
退院後お礼に会いに行った菜都と、未成年だと知って真剣に説教を垂れた一馬が、恋に落ちるのに時間はかからなかった。

「芽衣は? おとなしく寝た?」

「ああ、バタンキューや。今日は相当はしゃいでたから、疲れたんやろ」

ハンサムとは言い難いけれど、太く濃く長く真一文字に伸びる眉に大きな瞳、太い鼻と頑丈そうな顎、日焼けした顔は精悍で、鍛え上げられた筋肉の盛り上がりがTシャツの上からでもわかる。
日々の厳しい訓練に加えて暇があればどこでも腕立てやらスクワットやらと、強靭な体力と根性を自負する彼だけれど、今夜はさすがに疲れた顔をしている。

「そろそろ降ってきそうやな」

声につられて、菜都も空を見上げた。
厚い雲がいっそう垂れ込め、生暖かい風が雨の匂いを連れてきた。

今年の大文字さんは、月も星もなくいつにも増して厳かだった。お精霊(しょうらい)さん迎えでこの世にいらしたご先祖の霊も、迷わずあの世にお帰りになられただろう。
澪の心はまだ、迷いの中にいるようだけど。
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