桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
〝コンコンチキチン、コンチキチン─〞
アーケードに祇園囃子が響いている。
暑い人いきれで気を失いそうになりながら、澪は茫然と歩き続けていた。
〈約束の印に〉
彼から高価な指輪を贈られたとき、本当は哀しかった。
約束とは、互いの心を縛る呪文でしかないのだと、澪は知っていたから。
そのときの言葉に偽りがなくても、人はいかんせん己の事情に流される。だから何か形で証を残そうとする。
強い意志と思いがあれば、指切りも、誓紙も、誓いのキスも、約束の指輪も、必要がないはずなのに。
そして、約束は、受けた方の心を、より強く縛るのだ。
突然、罵声のようなクラクションが響いて、澪を現実へ引き戻した。
騙されたわけではない。はじめから〝One night stand〞だと承知していた。
彼のような人に恋人がいないはずがないし、女性の扱いにとても慣れていて、きっと彼にとって《《特別な夜》》などよくあること。──そう割り切ったからこそ、踏み出せた一歩だ。
指輪は、あの夜の対価。
それなのに、社交辞令の甘い言葉を鵜呑みにして、ひとり舞い上がっていた。……恥ずかしい。
──バカみたい。そんなひとがわたしに恋するわけがない。いい夢を見たと思って、忘れよう。
澪の心のダムに、彼が小さな罅をつけた。
漏れ出す前に気づけてよかった。今ならまだ塞ぐことができる。
だけど、どう頭で理屈をつけても、心の乱れは抑えられない。
あの夜の、身も心も痺れて魂が浮き上がるような感覚を知らずにいたら、きっとこんなには辛くはなかった。
遠くで遠雷が轟き、祭りの宵を愉しみに訪れた人々が、不安げに空を見上げた。
澪は、何かにせき立てられるように走り出した。
頬を伝うものが、汗なのか、涙なのか、澪自身にもわからなかった。
〝コンコンチキチン、コンチキチン─〞
アーケードに祇園囃子が響いている。
暑い人いきれで気を失いそうになりながら、澪は茫然と歩き続けていた。
〈約束の印に〉
彼から高価な指輪を贈られたとき、本当は哀しかった。
約束とは、互いの心を縛る呪文でしかないのだと、澪は知っていたから。
そのときの言葉に偽りがなくても、人はいかんせん己の事情に流される。だから何か形で証を残そうとする。
強い意志と思いがあれば、指切りも、誓紙も、誓いのキスも、約束の指輪も、必要がないはずなのに。
そして、約束は、受けた方の心を、より強く縛るのだ。
突然、罵声のようなクラクションが響いて、澪を現実へ引き戻した。
騙されたわけではない。はじめから〝One night stand〞だと承知していた。
彼のような人に恋人がいないはずがないし、女性の扱いにとても慣れていて、きっと彼にとって《《特別な夜》》などよくあること。──そう割り切ったからこそ、踏み出せた一歩だ。
指輪は、あの夜の対価。
それなのに、社交辞令の甘い言葉を鵜呑みにして、ひとり舞い上がっていた。……恥ずかしい。
──バカみたい。そんなひとがわたしに恋するわけがない。いい夢を見たと思って、忘れよう。
澪の心のダムに、彼が小さな罅をつけた。
漏れ出す前に気づけてよかった。今ならまだ塞ぐことができる。
だけど、どう頭で理屈をつけても、心の乱れは抑えられない。
あの夜の、身も心も痺れて魂が浮き上がるような感覚を知らずにいたら、きっとこんなには辛くはなかった。
遠くで遠雷が轟き、祭りの宵を愉しみに訪れた人々が、不安げに空を見上げた。
澪は、何かにせき立てられるように走り出した。
頬を伝うものが、汗なのか、涙なのか、澪自身にもわからなかった。