桜ふたたび 前編

2、春風のせい

すっかり春の陽が暮れて、鴨川の流れに対岸の店のオレンジの灯りがゆらめいている。

四条大橋を渡りすぐ右へ折れると、〝先斗町(ぽんとちょう)通〞。
だんだら模様の石畳の細道に、小さな店構えの料理屋や割烹がひしめき合って建っている。

青い千鳥が描かれた〝通り抜けできまへん〞の案内板が掛かった路地(ろーじ)のひとつに、ふたりの目当ての店があった。

ひと一人通るのが精一杯、元お茶屋の二階下を通した路地奥に、ぽつんと一軒、灯が点った赤い鴨川千鳥の白提灯、〝里〞と葡萄茶に染め抜かれた麻暖簾が揺れている。
引き戸に手をかけ、笑顔で振り返った千世が、おやっと澪の頭の後ろを覗き込むように背中を反らせた。

「あれ? 澪、かんざしは?」

澪は襟足に手をやって、眉を曇らせた。

撥型の鼈甲に胡蝶の蒔絵と螺鈿、本真珠をあしらったかんざしは、祖母の形見だ。
路地裏に入るとき、巨漢の外国人とぶつかったから、弾みで落としたのかもしれない。

「ごめん、先に入ってて。探してくる」

言うが早いか踵を返し、忙しく地面に視線を這わせながら来た道を辿る。
辺りは足下もおぼつかない薄暗さ。木壁のぼんぼりと、数軒の玄関灯だけが、頼りない灯りを落としていた。

かすかに着信音が聞こえた。

目をやると、男性のシルエットがあった。案内板を見上げ、狭い入り口を塞ぐように立っている。

その手に見覚えのある影を発見して、澪は思わず走り寄った。

「すみません、あの……、それ……」

食い入るように見つめる目の前で、長い指先がかんざしをくるりと廻した。
真珠の珠が妖しく光を返した。
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