桜ふたたび 前編

ジェイは、婚約については否定したけれど、ふたりがただの古い友人ではないことは、澪でもわかる。

澪は、恋愛感情が必ずしも一人だけに向けられるものだとは思っていない。
好きだと言われたからといって、ましてや一夜を共にしたからといって、人の心は誰かに縛られるものではない。
秩序や倫理がなければ、人間は本来、欲張りで、目移りしやすい生き物だ──父がそうであるように。

澪がおそれていたのは、人と人との誓いを踏みにじり、誰かを傷つけてしまうこと。
婚約の事実がなければ、他に付き合っている女性がいても問題ない。

けれど、多くの人は愛する人を独占したがる──母がそうであるように。

だから、クリスティーナ・ベッティが彼を愛しているのなら、澪の存在は要らぬ波風を立てることにならないだろうか。

それとも、外国人の恋愛観はもっとドライで、浮気の一つや二つさして気にも留めないだろうか。
いや、心配しなくても、まず澪など歯牙にも掛けないか。

澪が結論に到達する前に、そっと顎先が持ち上げられた。
目の前でアースアイが物欲しげに笑っていた。

チリン──風鈴が、静けさの中にひとすじの線を引いた。
その音に背を押されるように、澪は心に残ったしこりを胸に押し込んで、目を閉じた。

──まだ、水は漏れてはいない。

と。
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