不幸な平凡メイドは、悪役令弟に溺愛される



 テオドール・ピストリークス伯爵様の住まう屋敷に住み込みで働くようになって、はや数日が過ぎた。

 今日のわたしは、屋敷の庭の草むしりをおこなっていた。

 先ほどまで、執事のオルガノさんも一緒に仕事をしていたはずだったのに、なぜかいなくなり、わたしは一人でひたすら草をむしっていた。土のむせ返るような匂いが、鼻をくすぐってくる。手は泥だらけ、草で何度か切ってしまって、細かい傷がついていた。

 ひざ丈の黒いワンピースに白いフリルのついたエプロンを、いつものようにわたしは着ている。ただ、今日は普段とは違って、もつれがちなくすんだ金色の髪をポニーテールにしてまとめていた。

「オルガノさんは、一体全体どこに……」

 日も傾きつつあるので、だいぶ外の風が涼しくはなってきていた。
 だけど、ずっと作業を続けていたのもあって、わたしの額を汗が流れていく。
 額の汗を私は拭おうと、自前の手巾を取り出そうとしたんだけど……。

「は! オルガノさんがケガした時に渡したままだから、手巾がいつもより少ないんだった!」

 先日、割れた壺の欠片でオルガノさんがケガをした際、止血のために手巾を貸して以来、一枚不足していたのを思い出す。
 ここ数日、あいにくの雨だったこともあり、晴天の今日、やっとで干していたのだった。

「仕方ないから、このまま作業を続けようかな……」

 あと何度か草をむしれば、終了の予定。このまま汗が流れたまま頑張るしかない。
 決意をかためる必要があったのかは分からないけれど、決意を固めたわたしが作業を再開しようとしたところ――。

「アリア」

 背後から、氷のように涼し気な声が聞こえた。
 びっくりして振り返ると――。
 
「テオドール様!」

 わたしの背後にテオドール様が立っていたのでした。
 まあ、わたしの名前はアリアじゃなくてマリアですけども……。もう何回目……。

「日差しを浴びても大丈夫なんですか?!」

「私をなんだと思っている……?」

 わたしが目を丸くしながら話しかけると、テオドール様からは低い声で返事があった。
 いつも屋敷の中で、やれ実験だの研究だのと引きこもっていらっしゃるので、わたしの肌よりも白いんじゃないかというぐらい、彼は色白だ。

(てっきり、伝承に聞く血を吸う魔人を思い出したとか、そんなことは言えない……)

 たじろぐわたしに、テオドール様が「もう良い」とだけ答えた。

(また呆れられたかもしれない……)

 わたしが突拍子もないことを言って、彼が呆れる図式が段々と出来上がってきている気がする。

「オルガノから、これをお前に返してほしいと言われて渡しに来た」

 そう言って、テオドール様が紺碧のフロックコートの懐から取り出したのは、わたしの白い手巾だった。

(オルガノさん、自分で渡せば良いのに……というか、ご主人様を小間使いのように利用するなんて、なんて恐ろしい……)

 まあしかし、オルガノさんならやりかねないなとも思ったり……。

(というか、テオドール様が素直というか、まじめすぎるというか……)

「アリア、お前は素手で草を抜いていたのか? 手巾を返したかったのだが……」

 至極真面目な表情で、テオドール様はわたしに問いかけてきた。
 彼の視線は、私の土にまみれた両手に注がれている。
 汚れた手を見られてしまい、わたしはなんとなく恥ずかしくなった。
 
「はい、もちろんです。貴族のご令嬢ではないので、手袋をつけることはできませんから」

 基本的にメイドは手袋をつけない。なぜならば、手袋をするということは、すなわち家事労働をしていないことを指すからだ。
 わたしはなぜだか顔を上げられなくなってしまった。
 左手を右手で掴んで、俯いていると――。

「こういう作業は、お前はしなくて良い」

 気づけば、テオドール様の右手が、私の右手を掴んでいた。

「テオドール様! 汚れてしまいますよ!」

 綺麗な顔をした男性に手を掴まれていることよりも、わたしは彼の手が汚れてしまうことを危惧して叫んでしまった。

 だけど、テオドール様は――。

「泥など払えば良い。せっかく綺麗な手なのに、細かい傷が入ってしまっているな」

 ――草むしりの際に、私の手に細かい傷が入ったのを気にしてくれたようだった。

(そ、それよりも、き、綺麗な手って――!)

 顔が沸騰したように熱くなっていくのを感じる。

「テ、テオドール様!」

 感謝を伝えようと思って、わたしが彼に声をかけたところ――。


「テオドール様! 大変です! ばあちゃんが!」

 
 テオドール様とわたしの前に、朽葉色の髪と瞳をした執事のオルガノさんが、慌ただしく現れたのでした。
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