バラ色の十年
「好きな人いないのお」
 隣で、野菜を刻んでいる里子叔母さんからそう言われた。2年前から、お盆になると、みんなで祖父の家に集まるようになった。私は祖父の家の台所でインゲンのすじとりをしていた。
「いないよお。なかなかねえ」
「鈴ちゃん、理想が高いんじゃない?そんなに綺麗だったら言い寄ってくるでしょ。男子が」
「いやいや。そんなこともなくて」
 以前はそんなこともあった。食事の誘いや飲みの誘い。それにBBQや釣りや映画。片っ端から断っていたら、「パパがいるらしい」とまことしやかにささやかれるようになった。否定してまた言い寄られても面倒なので、放っておいている。おかげさまで、同僚女子とは距離を置かれていて、ランチを一緒に食べるのは同期の子くらいだ。
 会社での人間関係に重きを置いていないので、それほどダメージはない。
 好きな人がいることは、隠している。本当は、いつもあの人のことを考えているのに。
 あの人と過ごすことを、いつも妄想して。夢の中で、私はいつもあの人と語り合っている。いや、言葉なんかいらない時だってある。ただ見つめあって肩を寄せてじっとしているだけでいい。あの人のまつ毛がまばたきで動くのを見るだけで、きゅっと胸がしめつけられる。
 気がつくと私は、すじを取ったインゲンを手でもてあそんでいた。里子叔母さんは言った。
「鈴ちゃん、26歳くらいでしょ。結婚とかしたくならない?」
 里子叔母さんは晩婚だった。40歳で結婚した。里子叔母さんは26歳の時、もう結婚したかったんだろうか。
「結婚かあ、遠いねえ」
 当たり障りのない返事をする。あの人とだったら結婚したい。あの人と毎朝一緒に目覚めてみたい。いや、きっと私のことだ。早めに起きてあの人の寝顔をじっと見て至上の喜びを味わうだろう。そして、あの人は、起きてくすぐったそうに笑うのだ。
「何だ。起きてたのか」
 低い、ハスキーな声が私の耳に届く。恍惚となる。いけない、また妄想してしまった。
「インゲン、終わったよ」
「ありがとう。そろそろ百合ちゃんが来るかもねえ」
「うん」
 里子叔母さんは、集まる皆のために、祖父が作った夏野菜を、たくさん料理している。私は皆が集まる夜ではなく、夕方に来た。そうすれば里子叔母さんの手伝いもできるし、早く来ておけば、だってそれだけ…。
「こんにちわー。里子叔母さん、いるー?」
 百合姉の声が玄関の方から聞こえてくる。私は、いそいそと玄関に向かう。
「あ、鈴。ご苦労様」
「ううん。百合姉、仕事終わったばっかりでしょ。お疲れ」
「お盆でもなんでも仕事押し付けようとしてくるから。はい、お土産」
 綺麗にラッピングされた水ようかんの包みを渡される。里子叔母さんの料理の後に、百合姉のお土産を食べるパターンができつつある。
「あ、悟。一時間くらいして来るから」
「じゃ、天ぷらはその頃だね」
 自分の声のトーンがおかしくないか、慎重に言う。
 口の中が乾いている。気づかれることのないよう、私は冷菓の包みを持って冷蔵庫へ急ぐ。百合姉も台所へやって来る。
「里子叔母さん、ひさしぶり。煮物、いい匂いがする。めっちゃ、楽しみ」
「悟さん、一緒じゃないの」
「うん。ガソリン入れてくるって。太一叔父さんとこは、もうすぐ着くみたい。里子叔母さんは一人?」
「うん。旦那は先週から岡山出張」
「えー、お盆返上かあ。大変だね」
 二人のおしゃべりがにぎわっている隙に、私は、小ぶりのポーチをスカートのポケットに忍ばせた。
「二階の換気してくるね」
 私は、二階にあがり、窓を開けた後、亡くなった祖母の部屋の鏡台の前に座った。ポーチを取り出して、化粧直しをする。慎重に。ネイルにインゲンのすじがくっついていないかチェックする。
 鏡の中の私の顔。自分ではどうとも思わないけれど、あの人と会うとなると話が違ってくる。あの人に見られると思うと鏡の中の私の顔は、途端にマイナス点だらけになる。
 もっと眉毛が格好良かったらいいのに。唇はもっとふっくらして。まつ毛は思うようにカールしていない。アイシャドウなんか最初からやり直したい。
 そんな激情に駆られつつ、なんとかファンデを塗りなおすだけにとどめる。
 あまりずっと二階にいるのも不自然なので、一階へ降りて行く。
 玄関先に気配がして、ドキリとした。行ってみると祖父が茄子をカゴいっぱいに抱えて立っていた。私は茄子を受け取りながら言った。
「おじいちゃん。今年も豊作だね」
「おう。天ぷらには茄子が一番じゃ」
 74歳になる祖父は元気だ。私と百合姉の両親は、海外で暮らしている。なかなか日本に帰れないので、孫の私たちがこうやって定期的に訪れている。皆で祖父が元気かどうか確認するために。
 そう、それが一番なんだけど。
「こんにちわ。茄子、落ちてましたよ」
 祖父の後ろに、悟義兄さんが立っていた。
「おお、悟君、ひさしぶり」
「今年も茄子、すごいですね。つやつやだ」
 悟さんが嬉しそうに言いいながら、茄子をカゴに入れる。
「鈴ちゃん、久しぶり」
「悟さんお疲れ様」
 ああ、どうしてこんな時に、私は茄子なんか抱えているんだろう。
「悟さんが来てから天ぷら揚げようって言ってたの」
 私の声は、うわずっていないだろうか。
「それそれ。毎年、天ぷらが楽しみなんだよ」
 屈託のない、少年のような顔をして、言う。私の胸はぐっと締め付けられる。
 そう、この姉の夫の悟さんこそが、私の「あの人」なのだ。

 十年前。私が16歳だった時。私は、いじめにあっていた。先にいじめられていた子に声をかけた、とかそんなくだらない理由だったと思う。
 中学生ならまだしも、女子高で、進学校でいじめがあるとは思っていなかったので、私は少し油断していたのかもしれない。でも、そんなことは後の祭りで。女子高でも進学校でも、いじめはしょうもないものだった。下足箱の中の上履きに砂が入っていたり、着ようとしたら体操服がぐっしょり濡れていたり。なんだか絵に描いたようないじめなのだ。
 私は、ことあるごとに、ああしょうもないなあ、と思っていた。怒るよりも、どうしようもない感じで心が削られていく。その削られていくのを止めることができないのだ。私は、じりじりと学校に行くのが嫌になっていった。
 翌日は、球技大会という日だった。球技大会が近くなると体育の時間も球技になる。バレーボールをやっていた時、私は、三回くらいサーブボールを頭にぶつけられた。
「あっ、ごめんね。坂本さん。当たっちゃったあ」
 いじめの首謀者の中田が言う。クスクス笑うクラスメートたち。私は、またしょうもないなあ、と思う。だが単純にボールを頭にぶつけられると痛い。
 単純だからこそ、つらいし怖いのだ。
 球技大会で優勝を狙うようなガッツのあるクラスではなかったから、翌日の球技大会でも、また中田を始めとした面々にボールを当てられるのは、目に見えていた。バレーボールがぶつかった後頭部はひりひりと痛んでいた。
 あー、明日。行きたくない。
 行かなくなったら、中田たちの思うツボなのだ、と思う自分もいる。いじめなんてあほらしい、とか言って元気に登校する自分を想像してみようとする。
 それが難しくなってきていた。毎日、しょうもない目にあい続け、ボディーブローのように効いてきてしまったのだ。ため息をついた。
 両親も、百合姉も私がいじめられていることをまだ知らなかった。
 明日、仮病を使って球技大会を休もうか。しかし、一日休んでしまうと、もう学校に行けなくなるような気もする。
 そんなどうしようもない日の夕方に、あの人はやって来た。

 窓の外は、ひどい夕立が降っていた。学校から帰ってきていた私は、部屋着に着替えてリビングで麦茶を飲んでいた。母は、台所で夕飯の支度をしていた。玄関で、あわただしく誰かが帰ってきた気配がした。
「鈴、タオル持ってきてー」
 百合姉だ。この雨に降られたんだな、と思い、私は浴室からタオルを取って玄関に持って行った。
「悟も、ほら、早く拭いて」
 百合姉が、そう言ってぐいっと玄関にひっぱりこんだ男性がいた。すぐに百合姉が彼氏を連れてきた、と思った。これまでも二度くらいそんなことはあったから、今度はどんな人だろう、とちらっとその男性を見た。
 濡れた髪の毛のその人は、背が高く、顔が小さかった。目があうと、黒目がちなのがわかった。この人、恰好いい日本犬みたい、と思った瞬間、かあっと体温があがった。
 あの衝撃をなんと言えばいいのか。
 なにこれ。なに、このかんじ。このひと、いい。めちゃくちゃいい。芸能人にだって、こんな風に思ったことない。やだ、なに。このひと、なんなの。
 言葉にならない激情が心の中でとぐろを巻く。
 百合姉のものだから欲しくなった、とかそんなことはかけらもない。
 そんなちっぽけなものではなかった。欲とか、そんな言葉では変換できない。
 とにかく爆発的に、この人がいい、と思ってしまう。
 後になって、これが一目ぼれというやつだ、と分かるのだが、とにかくその瞬間は、そんなことを気づく暇もなかった。
 その男性は、百合姉からタオルを受け取り、わしわしとタオルで髪の毛を拭いた。ふるふるっと頭を振る様子も犬みたいで可愛い。
「あー、もーびしょ濡れー。ごめん、悟。私ちょっと着替えてくるね」
 百合姉は、男性の前で固まっている私よりも、濡れた服の方が気になってたみたいで、さっさと二階の自分の部屋に行ってしまった。
 そこで、やっと理性らしいものが私の中で動いた。百合姉が着替えが必要なくらい濡れているのなら、この人だって相当濡れているはず。
「あ、の」
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