バー・アンバー 第一巻

吉原幸子「オンディーヌ」

にも拘らずそれを失念しているかのような「もう一杯おごるわ」というこのミキの反応はどこかタガが外れている。普通なら質すべきところだがしかしその豹変の分けも俺には分かるような気がするのだ。なぜなら、彼女が(俺が断定したように)眼前の肉体を借りた霊存在であるならば、その霊に〝嘘はない〟からだ。本音を隠せる人間と違って霊は情動そのものが赤裸々になっていると俺は以前に聞いている。だからそれからすると彼女のこの反応は意外でもなんでもなく、彼女の真情を引き出すべく俺が仕掛けた一種の誘導尋問(同期尋問が適切か?)に、彼女がストレートに乗って来てくれただけの話である。但しそこには誤算もあった。被害意識と怒りの心に於て俺に同期してくれて、そのまま殺害時の真相などを吐露してくれると思いきや、彼女の、ミキの真情(と云うか情動)はそれだけではなかったのだ。彼女は自分よりもまずこの俺を思いやってくれた。そしてその意味するところは彼女における真情と情動は恐らくこれが一番強いということだ。しかしこれを称してミキの実態が利他オンリイの、全き無私の、愛の心であるなどと云う(いや〝思う〟か?)つもりはない。それは彼女が俺と始めて対面した時に見せた〝アンバーなる微笑み〟に包含されることなのだろう。別な表現をすれば(諸氏はご存知だろうか?)かの女流詩人・吉原幸子「オンディーヌ」にある主題のようなものである。男女間における全き理解と相思相愛、しこうしてそれへの絶望感…とでもここでは云っておこう。実は同じものが俺にもあってそしてそれこそが彼女への思い入れにつながっている、とも云い足しておこう。とにかく横道に逸れた。大急ぎでバックする。
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