バー・アンバー 第一巻

わたしは…死んだ

「たぶん君の頭の中では今だに199✕年、つまり平成✕年の3月だと思うんだけど…」
「え、ええ…それはそうよ。だってわたし、い、今こうしてあなたとお話しているし、だったら…」とここまで云ったところでミキはハッとばかりに息を飲んだ。どうやら肝心なことに思い至ったようだ。
「じゃ、じゃあ、わたし…」
「そう。あの時君はチンピラに首を絞められて、そして…」
「そして、わたしは…死んだ」
茫然自失とするミキに尚も語りかけることは憚られた。黙ったままで見守っていると「そんな…」と一声絶句したあとでミキはおしぼりを顔に当て涙にむせぶのだった。やはり彼女は自分の死を自覚していなかったのだ。あわれだったがその事実を彼女に自覚させるしかなかった。だがしかし問題はこれからだ。いったいどうやったらこの死の自覚と、そしてミキとしての役目を〝誰か〟から与えられて、俺と対面している今この現実を、さらには霊界、あの世で、普段ミキ(ではなく✕✕✕✕✕✕✕)がいるであろう暗く悲しい世界とを有機的に結びつけることが出来るのか、彼女に自覚し続けてもらえるのかということである。ひょっとしてこのあと(恐らく)アイツに連れられて霊界にバックしたあとは、今のこの俺との体験も何も、彼女はすべて忘れてしまうかも知れないからだ。それはそう、ちょうど我々が睡眠中に見た夢を忘れてしまうように、である。懸命にその方法を模索するうちに入口のドアのサムターンがまわって誰かが入って来た。しまった、アイツかと目をやると、そこにはファー付きのダッフルコートを身に纏った、50年配と思しき女が立っていた。
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