桜ふたたび 後編

『契約の詳細はUSBに入っている』

そう告げたきり、彼は微動だにしない。まるで、いま話していたことも幻覚だというように。

柏木は、喉をひとつ鳴らし、思い切って体ごとジェイへ向けた。 

『こちらから一つ、よろしいですか?』

ジェイは瞬きだけで発言を許可する。

柏木は、低く声を絞り出り出した。

『澪さんのことですが』

『……』

『メニエール病が再発しています』

ジェイの表情が、初めてわずかに揺れた。

『完治したはずだ』

『過度のストレスで、再発する可能性が高い病気ですから。
少し前から兆候はあったようですが、胎児への影響を考えて、薬を服用されなかったようです』

環境の変化やそれに伴う孤独感。何よりも彼の婚約により、澪が深く傷ついたことは推して知るべしだ。
新プロジェクトが始動すれば、彼は今まで以上に忙殺される。
「明るく振る舞ってはいるけど、何か思い詰めているみたい」と、恭子は心配していた。

重苦しい空気そのままに、ジェイは窓外へ顔を向けた。
再び降り出した霧雨が、夕暮れの街を消していった。

『可哀想なことをした……』

彼はぽつりと呟いた。
流産への痛みか、長く抛っておいたことへの悔恨か、それとも、婚約破棄への自責の念か──その全てだろう。

車内には、ワイパーの音だけが続いている。
前方に車のテールランプが浮かび上がっては、すぐに冷たい雨に滲んで揺らいだ。

突如、ジェイは険しい顔を上げた。

『泉岳寺へ戻れ!』
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