桜ふたたび 後編
はやる気持ちでオフィスビルを出た柏木は、一旦雨の切れ間の空をうかがい、それから何食わぬ顔を装って、離れた路肩に停められたタクシーの後部座席の窓を、周囲に目を配りながらノックした。

雨粒の硝子の向こうで、ジェイが頷く。素早く体を滑り込ませ、柏木は開口一番言った。

『お戻りでしたか』

この数日の急な冷え込みで見る間に黄色く色づいた銀杏並木を、車は目的地もなくゆっくりと走り出した。

『泉岳寺へは?』

『ああ……』

肯定とも否定ともとれる答えに、柏木は眉を潜めた。

『いろいろと世話になって、感謝している。恭子にも面倒をかけた』

『い、いえ……』

意想外のしおらしさに、柏木もどう答えてよいやら困惑してしまう。突然の呼び出しを受けたとき、腹の底に溜まっていたやるせない怒りを一太刀でも浴びせてやろうと決意していたのに。

『礼はまた日を改めて。まず、これを──』

前方に目を向けたまま胸ポケットから取り出されたUSBメモリーに、柏木はドキドキしながら手を伸ばした。

『極秘にある人物のサポートを頼みたい。期間は六ヶ月、表向きはAXファンドに転籍という形になる。難しい仕事だが君の力が必要だ。少しでも迷うなら、この場でデータを破棄して欲しい』

質問も許さず、YESかNOを即断せよと、ジェイは難しい選択を迫る。

魔術師と呼ばれる彼からの、サンクチュアリへの誘い。こんな名誉なことはない。
しかし、極秘の来日、社用車も使用せず、わざわざ公衆電話から連絡する用心深さ。何を警戒しているのか、よほどリスクが高いのだ。

──考えるな、少しでも躊躇えば、その先にあるものを見ることはできない。

『了解しました』

ジェイは頷いた。そう答えることを読んでいたように。
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