THE SUICIDE BRIDE 自殺因果の花嫁
あの日から数日が経った。
私の中で彼女は、珍しく興味をそそられた女性と言った程度の感覚で、日々の生活の中で、あまり思い出したり考える事はなかった。
そんな時に彼女から連絡を貰い、仕事終わりに会う事になった。
日本最大の金融街に有る高級デパートで待ち合わせをした。
此処なら喫茶店やレストランも有るし、高級ブランド品から日用品まで何でも売ってる。
いくらでも観るものが有るし、到着時間が前後しても何の苦にもならないからだ。
大抵の女性は遅れて来るし、特別急ぐ必要も無いのだけど、万が一に時間を厳守するタイプだと自分の品格が下がる事になる。
彼女の前では、彼女にとっての理想の男で居続ける事が、自分に出来る彼女への奉仕なので、彼女に幻滅される様な真似は出来ない。
夕方に待ち合わせをして私は時間に余裕を持って待ち合わせ場所に向かった。
移動中にリサから連連絡が有り、遅れると言う事なので、私は好きなブランド服を見たりレストランやカフェを見て店内の雰囲気を確認したりした。
女性と待ち合わせをすると、会うまでの無駄に消費される時間で、その人への思い入れの強さが分かる。
この時間を、苦に感じるか感じないかで自分の心を知ることが出来る。
さすがに会うのが二度目なのと、遅れて来る事を想定して居たのでイラつく事は無かったけど、彼女が来るのを待ち侘びる感覚でも無かった。
彼女が遅れて来た事を怒らなければ、自分の評価が彼女の中で勝手に上がる。
良い男としての立ち回りを、そつ無くやってのけ、男としての価値を高めただけだ。
彼女は私を見つけると飛びついて抱きしめて来た
そして待ち合わせ時間に遅れた事を、猫の様に甘えながら謝って来た。
私は人前で飛びつかれた事に驚いたが、条件反射で僅かに気持ち程度の抱擁をして、笑顔で彼女を受け入れた。
彼女は少し飲んでいた様で妙にテンションが高かった。こんな夕方から既に飲んでるなんて、私と会うまでに女子会でもしていたのだろうか?
もしかしたら仕事終わりに、私と会ってる可能性も一瞬頭をよぎった。
彼女から発せられる、夜の女の雰囲気がする匂い。
酔っ払った状態で待ち合わせに現れた彼女の様子は、僕がこれまで経験したことのない、都会の繁華街で遊び馴れた女性を思わせた。
エレベーター近くに有る、レストランの写真のパネルを二人で眺めながら何を食べたいか聞いた。
彼女が高級そうな店を避けながら、パネルを指差して「ここ美味しそう」と笑顔で喋る事に安心感と好感を持った。
私は家族でよく行っていたデパートのレストラン階に有る洋食屋のパネルを指差して、昔家族でよく来てた事を言って「まだ有ったんだ。懐かしい」と言った。
彼女は、「此処に行きたい」と言うので懐かしのレストランに二人で入った。
どんな料理も有るファミリー向けレストランで、お子様ランチも有るような店だが、デパートに出店してるだけ有ってクオリティーは高い。
衛生面的な事から外食嫌いの私が、安心して食べれる数少ない店のひとつだ。
私は中でもホタテのフライが好きで、此処に来ると必ずシーフードフライを頼んでいたし、今回も同じメニューを頼んだ。
リサが既に酒が入って居た事もあり、私もビールを頼み、少しのアルコールを嗜みながら食事を楽しんだ。
彼女は良く笑う人で、居心地の良い状態になると水を得た魚の様に、次から次に会話が弾む。
私は無理に話さなくても退屈を感じる事はないし、会話に困る様なタイプではない。
相手が話さなければ、幾らでも自分から会話を振る事が出来るのだけど、会話が途切れる事なく続き、その会話が全て楽しい感覚だった。
リサは、私が出会った事がないタイプで、人生観や生きて来た境遇の全てが私とは違うのが面白かった。
それに加えて、私の事にも興味を持ち適度に聞いてくる気の使い方だったりは、さすが職業として多くの人と会話してるだけは有ると思った。
彼女の持つ高いコミュニケーション力は、私にとって学べる事が沢山あった。
よく酒を飲み、美味しそうに、ご飯を食べながら見せる彼女の豊かな表情は、こっちまで強引に楽しい気分にさせるような吸引力が有った。
∎
食事を終えレストランを出ると、リサがタバコを吸いたいと言うので喫煙ルームに移動した。
私はタバコを吸わないので部屋には入らず扉の外で待っていた。
何もする事が無い時間が、やけに長く感じて周囲を見渡してると、私と同じ様に人を待ってる女性が居た。
恐らく彼女も、彼氏がタバコを吸い終わるのを待っているのだろう。
その女性は、うんざりした顔をしていたので長い時間、ここで彼氏が来るのを待って居る事が伝わった。
リサは一向に戻って来ない。喫煙ブースの中で、電話でもしながらタバコを吸っているのだろうか?
やけに長い時間待ってる気がした。
退屈の苦痛に耐えていると、同じ様に待ってた女性と目が合って「お互いに大変ですね」と、視線で遣り取りした。
きっと、あの女性は喫煙者の彼氏と付き合ってる間に、今のように何度も待ち続けて居るんだろう。
私がリサと会えば、同じ様に退屈な時間を過ごす事になる。
今は良くても、何回も繰り返し待ち続ける事が、自分には出来るのだろうか? と、疑問に感じた。
そんなことを考えていると、リサが戻ってきた。彼女は笑顔で「お待たせ」と言いながら、僕の腕に絡みついた。
彼女から漂ってくるタバコの匂いに、僕は少し気分が悪くなった。
脳みそにニコチンを補充したリサと、デパートを後にして銀座の街を見て回った。
金融街に来るのは金持ちばかりで、高そうな服で着飾ってる人が多い。
リサは、渋谷の若いギャルがよく着ている様な、花柄のキャミソールの上から、日焼け対策の黒い薄手のフードの付いたコートを着ていて、ぱっと見はローブをまとった、魔女か占い師の様な個性的な格好をしてた。
対照的に私は、流行りのスーツ姿で、リサは自分だけ場違いな格好を恥ずかしそうにしてた。
私は、そんなリサを気遣って積極的に話しかけた。
リサと話せる事が楽しかったし、この街では良い女を連れて居るだけで価値が上がる。
彼女の格好は個性的でも、大抵の男達が良い女と認識する雰囲気の様なものが有った。
ランウェイを歩くモデルの様に、ただ一緒に歩くと言う、何気ない日常の動作で人の目を惹きつける立ち振る舞いが出来る女性だ。
彼女は一緒に居るだけで、周囲からの評価を上げてくれるタイプの女性だ。
滲み出る都会の夜の女の雰囲気と、高価な女感を前面に出し過ぎない慎み深さ、それらを個性的な衣装で隠してる雰囲気が、上手い具合に調和されてた。
普通じゃないけど、気取って無い見え方が、頑張れば手が届きそうな高価な品の様で、一度は抱いて見たいと男達に思わせる、一番口説きたくなる女性感が有った。
男がもしも浮気するなら、こう言う女性とするんだろうなと思わす魅力があった。
∎
二人で当てもなく銀ブラしていると、公園にたどり着いた。
公園と言っても大都会のビルに囲まれたベンチと木が植えてあるだけの、ちょっと座れる休憩スペースみたいな所だ。
すぐ前には大通りが有って、バスのクラクションやスーパーカーの排気音がけたたましく鳴り響く。
それでも、この繁華街では静かな憩いの場に思えた。
私たちは腕を組んだまま、ベンチに座って休憩した。その時、リサが甘えた声でお酒を飲み過ぎたことを謝り、自分も食事代などを負担すると提案した。
彼女の可愛らしい態度と、優しさが嬉しかった。
ただ、かなり酔ってるのに会話が成立してるのが、酔った演技をしてる気もして、やはり油断ならない上手な女性という警戒感を私に芽生えさせた。
その警戒する気持ちは、自分に害を与えるものでは無く、相手の知能に対する尊敬や敬意に近いもので、私はリサに対して好感を持って居た。
リサは自分の事をどう思うかと尋ねて来たので、私は「やっぱり話し慣れてる。心を掴んでくるのが上手くて驚いた」と伝えた。
彼女がじっと私の顔を見つめていた。その視線に気づき、私が彼女を見返すと、リサはゆっくりと口を開いた。
「私、そういう風に思われがちなんだけど、ほんとに遊んでるわけじゃないの。」
彼女の言葉は、自分の事を男慣れした、ふしだらな女と決めつけた私への抗議だった。
リサの瞳は真剣で、いつもより低い声には微かな震えが聞こえた。
リサは、今まで自分が真面目な恋愛しか、してきたことが無い事を強調し、お酒の勢いで軽率な行動をとるような女性ではないと、力強く訴えた。
そして彼女は、まるで自分が遊び人と誤解されているかのように感じたのか、元彼について話し始めた。
リサは夜の営みもない状態で、収入がろくに無い元彼と、五年間も同棲して居たと言うのだ。
自分の家に転がり込んで来た彼を追い出せず、時間を無駄にしたと怒り混じりの表情を滲ませた。
同棲経験がない私からすれば、二十歳そこそこの若さで同棲するなど、考えられないことだ。
ましてや五年間も同棲してたなんて、良くお互いの親が許したなと不思議に感じた。
だけど、リサが男女の関係とは一線を画した感覚で、元彼と長い間同棲していたという話には、一定の信憑性があった。
それは、私と彼女が初めて一夜を共にしたとき、彼女がとても喜んでいたからだ。
彼女が色々と我慢しながら、そして傷つきながら生きてきたのだろうと、私は感じた。
そう思うと、私とは全く違う人生を歩んできた彼女の頑張りに、深い尊敬と愛情を感じるようになった。。
彼女の元彼に対する愛情と優しさの様なものに好感を感じたのだと思う。
それは、私自身にとっても不思議な感覚だった。
ほんの数分前までは、自己の成長に役立つ女性という理由で、接していたのに、突如として彼女への感情が愛しさに変わっていた。
リサが僕の事を好きなのは良く分かって居たので、僕は何一つ遠慮する事なく、彼女を強く抱きしめた。
彼女の頭に、頬ずりしながら優しく「ヨシヨシ」と言って慰めた。
リサは涙を拭きながら僕を強く抱きしめた。僕もリサを強く抱きしめると、彼女の体温と香りが伝わった。
彼女の匂いは、タバコを吸って居るからか、お香の様な深い甘みと煙たさが混じった、一言で言い表わせば魔女とか、顔を隠すイスラム教徒の女性が漂わせてる様な、エスニックな香りがした。
彼女の妖しい雰囲気に、良く似合う香りで、あまり普通の人は漂わせない匂いが漂ってた。
リサの体温を感じていると、居心地が良くて僕はずっと彼女を抱きしめてた。彼女は何も喋らなかったし、僕も喋る事が思い浮かばなかった。
彼女の流す涙の意味は良く分からなかった。
元彼を思う愛情の涙なのか、彼を恨む憎しみの涙なのか。
それとも私の優しさに対する涙なのか…
僕はリサの事が愛しくて堪らなくなったので、「今日は一緒に居てくれる?」と上目遣いで甘えながら言った。
するとリサも優しい声で、大事な子供をあやすように「いいよ」と言ってくれたので、僕の家に連れて行く事にした。
∎
私の住んでいるマンションは駅からは遠いものの、複合施設内にあって、マンションからオフィスビル、病院、スーパーまで、必要なものがすべて揃っている。
親が社会的トラブルを避け、私を飼うために用意した住居だ。
この近所では、働いている人と高齢者しか見かけない。まるで結界が張られたような、孤立した都市型集合住宅で、どことなく異質な感じがする。
ただ、一見すると綺麗な外観を持ち、都会の裕福な住人が暮らす理想的な住まいのように見える。
その事を、僕も理解して居たし、やっぱりリサも目を輝かせて「良いところね」と喜んで居た。
実際に住んでみると、閉鎖的な空間に飽きてしまう。しかし、初めて訪れる人にとっては、都会的な雰囲気を満喫できる場所だ。
敷地内にある倉庫の様に広い大きなスーパーで食材や、リサがお泊りするのに必要な歯ブラシ等を買い自宅に戻った。
彼女はすっかりご機嫌で、終始楽しそうな様子だった。それを見て、私も嬉しくなった。
高層マンションの上階に有る自宅に着いてから、「風呂に一緒に入ろう」と、僕がリサに提案した。
彼女は少し照れくさそうに頷いた。ゆっくりと浴室に足を踏み入れ、お互いに躊躇しながら服を脱いだ。身体を隠すように、僕たちはすばやく浴槽に浸かった。
浴槽は僕たち二人にとってはやや狭く、彼女を抱きかかえながら湯船に浸かり、お互いに髪の毛や身体を洗いっこした。
初めてホテルに行ったときは、財布を盗まれないために一緒に風呂に入ったけれど、今回は心から一緒に入りたいと思った。
生きていれば楽しく無い事や、辛い事の方が多い。
彼女が居る、いつもと違う状況に疲れや気苦労を、感じそうなものだけど、彼女が居た方が楽しくて心地が良かった。
それは、私にとっては凄く珍しい事で、実家に帰った時に、親や妹が居ても少しの負担を感じる。
一人でいる時より幸福感を感じ、何の負荷も感じない自分に驚いた。
リサが首を絞めて欲しいと頼んで来たが、彼女が心筋梗塞でも起きたら一大事だ。
私が「捕まりたく無い」と断ると、「私がお願いしたと、紙に書いとく」と得意げな顔をして言って来た。
やっぱり、この女は馬鹿なんだと思って「いや、紙に書かれても捕まるから」と笑いながら却下した。
それに首を絞められながら快楽を感じたいなら、それ以上の気持ち良さを、刻み付けたい。
私は酸素を遮断する目的じゃなく、彼女が咳き込むように喉仏の上を押さえた。
喉の異物感を排除する様に、咳が込み上げ彼女が咳き込んだ。
身体の酸素を出し切ったタイミングで、私は彼女の口を咥え込んだ。
無条件で酸素を求める彼女の身体は本能のままに、私の体内に残る酸素を強引に吸い上げた。
暗い海の底に沈んだ彼女に、口渡しで酸素を届ける様に、私の体内の臓物臭が充満してる、吸い殻の廃棄酸素を、彼女にたっぷりと吸わせてやった。
∎
ミルクで浸したガラス製の水差しに、挿した赤い薔薇も萎れた頃。
私は静かな闇の中で意識が回復した。
数秒前まで見ていた夢の内容は思い出せなかった。
隣で寝てたリサが、うめき声を発して暴れ出した。
私を手で払い除け、寝たままの格好で天井に手を伸ばし、空を掴むように、唸りながら手を動かしていた。
何か猛獣にでも襲われてるような印象で、彼女は額に沢山の汗を滲ませ苦しそうだった。
変に起こして、脳の休みを遮断するのも悪いと思い放置してた。
ただ、あまりにも苦しそうに、長い時間うなされてるので、私は子猫をあやす女性の様に「ヨシヨシ」と、少し明るめに静かな声で言いながら、ビッショリと汗に濡れた彼女の頭を、優しく撫でた。
彼女は一瞬起きた様で、凍った様に硬直し動きを止めた。
数秒間の沈黙は、さっきまで聞こえていた、うめき声が無くなったせいか、キーンと耳鳴りがしそうなくらい静寂を感じた。
そして、彼女は私に抱きつき一瞬で悪夢を忘れて、また寝たようだった。
私自身も昔は良く悪夢を見ていたし、一人で寝てる時に、うなされてるかなんて自分では分からない。
だから特別、何も思わなかったけど、リサの太ももに刻まれてる椿のタトゥーと、左腕のリストカットの跡が、妙に印象に残った。
私は、彼女の頭を、撫でながら思った。
今は、ゆっくりお眠り、眠り姫。嫌な夢は、すぐにまた見る事になるのだから。
∎
僕達二人は、ほぼ同時に起きた。
私は珈琲を淹れる為に台所に向かった。
鉄瓶で湯を沸かしながらリサを見ると酷くみすぼらしい格好をしてた。
髪はボサボサで艶がなく、栄養不足で枯れ果てた稲穂みたいだ。幸せも元気も失調してる不機嫌な心が、顔に出てた。
対照的に僕は体調が良く、ご機嫌なのは、きっと彼女のおかげだと思い、感謝の気持ちを込めて彼女に優しくしようと思った。
珈琲に砂糖を入れるか聞くと、普段彼女はそんなに珈琲を飲まないから、良く分からないらしい。
喫茶店で飲む時は砂糖入れてると言いながらリサは考え込んでいた。
心にへの問いかけを終えて「少し甘いのが飲みたいかな」とリサは答えた。
僕が、豆乳有るけどミルクの代わりに入れるか聞くと、彼女は目を丸くして喜び「入れる!」とはしゃいでいた。
彼女が美味しそうに珈琲をすすりながら、「美味しい」と口にする。その様子を見ながら僕も珈琲を手に取った。
今日は何して遊ぶかを二人で話し合った。私が一度はやってみたいデートプランの候補をいくつか提案した。
私は無駄な金は使いたく無いし、無意味な時間を過ごすのも嫌だ。
私がリサにデートを提案したのは、デート後に自然な形で別れ、家に居座られるのを防ぐ為だ。
そして、もし将来、本当に私が大切にしたいと思える女性と出会ったら、その時に彼女との経験が活かせるだろうと思った。
結局、ダラダラと話し込んでみたものの、やってみたい事が多過ぎて何をするかイマイチ決まらないので、準備しながら考える事になった。
彼女がシャワーを浴びてる間に、顔を洗ったり、ささっと準備を済ませた。
彼女は何をするにも時間がかかり、化粧や髪のセットなど、けたたましくドライヤーの轟音を響かせながらメイクをして居た。
子供の頃に父親と準備の長い母親を車の中で文句言いながら待っていた事を思い出し、女の準備は時間はかかるモノだと、苛々しない様に、自分に言い聞かせた。
パソコンを開き仕事を片付け終えても、彼女はまだ身支度を整え終えて無い様だった。
無駄だと分かって居ても、早くして欲しい事を伝えた。やはり全く意味が無く、私の苛立ちが増すだけだった。
彼女は煙草を吸うと家からと、空いたペットボトルを持って外に出た。玄関を出た先にある非常階段でタバコを吸うらしい。
リサの身支度を無駄に待ってても、イライラするだけなので、仕事に集中していると、彼女の存在をすっかり忘れて居た。
ノートパソコンをバタンと閉じると部屋が静まりかえっていた。
私は、リサの事が心配になり玄関を出て非常階段を確認した。
二四階建のマンションに備え付けられた非常階段は、金属製の螺旋階段で、落下防止のために柵で覆われており普段は誰も使わない。
造りも安易で、経年劣化で壊れないか不安なくらいだ。
本当に非常時以外はエレベーターや、別の階段を使うだろう。
そんな階段に座り外を見ながら彼女はタバコを吸って居た。
ちょうどマンションの真ん中の十二階に住んでるので、結構な高さが有り、眺めは良いものの、ビル風の強風で、空気は冷たく居心地は悪そうだ。
「寒くない?」と私が聞いても、彼女は静かに首を横に振り、「大丈夫」と微笑んで答えた。彼女は外の景色を眺めていた。
さっきまでボサボサだった彼女の髪も、丁寧にアイロンがかけられ、一本一本が艶やかに輝いていた。
準備が出来てるなら早く言えと思ったが、彼女は彼女でお気に入りの場所でタバコを吸いながら、私の仕事を邪魔しない様に気をつかって居てくれたのかもしれない。
ペットボトルにタバコの灰をしまい、彼女は玄関から家に中に入って来た。
リサが家に入って来た瞬間にタバコの煙臭い臭いがした。
彼女が布が多い服を着てるからなのか、引き連れて来た煙の量が多くて、部屋中が有害物質で汚染され、僕は思わず咳き込んでしまった。
リサ自身は良い匂いなのだけど、彼女が着ている衣服に纏わりついた毒物の臭いで気分が悪くなって少し目眩がした。
彼女が心配そうに覗き込んで来たので、正直に「タバコの臭いで気分が...ごめん」と謝った。
彼女が着ている衣服に視線を送って、リサ自身の臭いではない事を示唆したけど、彼女が傷付かないか心配だった。
やっぱり、少し驚いてショックそうな顔をしながら一瞬自分の服を嗅いで居た。
彼女の口からもタバコの臭いがして、自然と少し距離を取る様になった。
リサは、すぐに僕の異変に気付いて、落ち込んだ様な表情をしてた。
彼女は洗面所に行き、口を濯いで戻って来た。
彼女が僕の事を気遣ってくれたのが嬉しかったし、彼女自身の匂いは大好きなので優しく抱き寄せ口付けをした。
キスをすると、もっと彼女と接触したくなったけど「はい。行くよ」と外出を求められ、僕は名残惜しい気持ちを抑えて家を出た。
あれこれと準備をしていたら、いつの間にかおやつの時間を過ぎていた。お昼ご飯もまだ食べていなかったので、まずは何か食べようという話になった。
結局、近くの小さな喫茶店に入ることになった。店内は昔ながらの落ち着いた雰囲気で、静かなピアノ音楽が流れてる。
簡単な軽食とコーヒーを飲みながら談笑していると、テーブルの上に置いてある彼女の携帯電話のバイブレーターが振動した。
彼女は携帯を見て電話の主を確認すると、短く深呼吸した後に振動し続けている携帯電話をテーブルの上に置いた。
着信が止まっても、また直ぐに電話が着信を知らせるように振動して相手を確認した後、彼女は電話をテーブルに戻す。この一連の動きが五分間隔で何度も繰り返された。
リサがあえて電話に出ない様にしてる事は分かったし、僕もあえて何も聞かなかった。
恐らく、元彼からの連絡なのだろうと予想は付いていたし、僕とリサは恋人関係にある訳じゃない。
彼女が他の男と、どんな関係に有ろうと僕には関係ない。
ただ、僕に判る様に、あえて携帯電話をテーブルの上に置いて、電話がしつこく掛かってくる事を示して居たので、「本当に出なくて大丈夫なの?」と聞いた。
リサは「何度かけるなと言っても、電話をかけて来て困ってる」と怒った表情を見せた。
彼女を見て僕は、完全に新しい彼氏が出来るまでは、元彼との付き合いを維持するタイプの女性なんだなぁ、と思った。
それを僕に態々分かる様に、携帯を見せるのは、嫉妬させようとしてるのだろうか?
彼女のソワソワした態度が、賭け事でもしてるかの様に、僕の様子を気にしてる感覚がして、何を企んでるのか良くわからなかった。
確実なのは、僕に元彼の話をしたいんだなと思ったので、電話の主について聞く事にした。
リサと初めて会った夜に、僕と名前を間違えて呼んだ男の人だろうと、思ったので「その人が前に名前間違えて呼んだ人?」と聞いた。
リサは頷いて、「もう別れてるし、連絡しないでって言ってるのに電話を掛けて来て困ってる」と言った。
僕は彼女を心配する顔をしながら「かけてくるなて言ってるのに、何度も掛けてくるのは迷惑だね」と言った。
電話ぐらい迷惑ならブロックすれば良いし、別れてずっと関わりが無ければ自然に人間関係なんて切れる。
電話を何度も掛けてくるのは、別れて日が浅いか、彼女が何かしらの付き合いを続けてるからだろうと感じた。
ただ、彼女が、自分は被害者だと言いたげなので、僕に出来るのは、彼女が演じたい役を尊重して盛り上げる事だけだ。
僕はリサに「ストーカーになる人も居るし気をつけて。困ったらいつでも助けるから、ちゃんと言ってね」と伝えた。
彼女は安心した表情で、嬉しそうにコーヒーを飲んでた。
安心したのは、リサは悪くない、可哀想な被害者だと、僕に肯定されたからなのか、元彼から守ると言った僕に満足をしたのかは分からない。
彼女の身に危険は無いと、表情から感じたので僕も安心した。
あざとい所が、面白いし刺激が有ってちょうど良い。こういう女だと分かってたし、それが彼女の魅力でもあった。
それに、なんだかんだで、僕自身がリサの事を大切には思っている事を実感した。
リサは黒いダークなデザインのネイルをして居て、金色のブロンドヘアーを、かき上げるたびに黒いネイルのラメがキラキラと反射した。
僕の視線にリサは気付いてた。それでも僕は彼女の仕草を見続けて居た。
リサが「そろそろ髪を切らなきゃ」と言ったので、「俺もそろそろ切りたい」と答え、一緒に美容院に行く事にした。
僕がよく行ってる銀座の美容院に電話してみると、偶然空きがあり二人で電車に乗り美容室に向かった。
∎
美容院に着くと、僕とリサは隣の席とは言え四メートルは、離れたソファーにそれぞれ座って髪を切った。
僕とリサは近くて遠い距離で、話す事は出来ない。
それぞれに担当が付いて髪を切るので、隣には居るのに、互いに目が合う事も話す事も無い状況だ。
さっきまで喫茶店で話してたリサと、引き離され個別に髪を切るシュチュエーションに、少し寂しい様な不思議な感覚を受けた。
いつもの担当の女性に、リサの事を「彼女さんですか?」と聞かれたので、「いえ、友達です」と答えた。
答えた後に、リサに聞こえたか気になった。
別に嘘はついてないけど、リサはどう思うんだろうか?
もっと良い答え方が有ったんだろうか?
なぜか、そんな事が気になった。
一瞬彼女の方を見たけど、後ろ姿しか見えず、彼女は彼女で自分の担当の人と話してる様だった。
ただ、何となく彼女の美容師と話してるトーンや仕草で、聞こえただろうなと感じた。
僕自身も、聞こえて良い様に、はっきりと答えたし、ありのままの事実を答えただけで、リサに聞こえて困る内容じゃ無かった。
美容室を出て、なんとなく繁華街の方に歩きながら、これから何するかを話し合った。
いつもなら直ぐに手を繋いで来るのに、そう言うのも無く、やっぱりいつもと彼女の態度が、何か違う様な気がした。
妙に早歩きで、目の前の信号が点滅して赤に変わろうとしてるのに突っ切ろうとした彼女の腕を掴み止めた。
人が多く、誰もが急いでるこの街では、自分が青信号になった途端に歩行者が居ようが、けたたましいクラクションを鳴らし一斉に車が走り出す。
するとリサは僕の腕を払い除けて、苛立ちながら「私は渡れるから進んでるの!」と怒りながら叫んだ。
僕は黙って、怒る彼女の少し後ろを着いて歩いた。
少し彼女との距離を縮めて「何処に向かってるの?」と、尋ねたが何も答えなかった。
彼女の後を着いて歩きながら僕は街を見て居た。
リサの事は気になって居たし、仲良く話したいとは思ったけど、強引に機嫌を治す方法が思いつかなかった。
それに、いつもより無愛想と言うだけで、彼女といる事に苦痛を感じてなかった。
歩くのも平気だし、街を目的も無く歩く事に退屈を感じてなかった。
彼女が、この後どうするのかにも興味があったし、流れに身を任せて、彼女の後を着いていった。
ちょうど信号で二人の足が止まったタイミングで、リサに「お腹減らない?」て尋ねた。
彼女が「お腹減ったの?」て聞いてきたので「ちょっと」と、情けない捨て猫がオヤツを、オネダリするように可愛い感じで答えた。
リサが笑顔で何を食べに行こうかと聞いて来たので、今まで食べきた中で、人生で一番美味しかった小籠包屋か、オムライスの美味しい店なら知ってると答えた。
リサは、小籠包を食べて見たいと言う事で、デパート最上階の中華料理屋に行った。
椅子はゆったりとした大きなソファーで、高いと言えば高いが、そこまで高く無いデートで出せる、ちょっと良い夕食の値段という感じだ。
店内はチャイナというよりはアジアン•モダンな造りで、大人のデートにぴったりの良い店だ。
リサが驚いた表情を見せて「どうしてこんな店を知ってるの?」と尋ねた。
私は少し恥ずかしく感じて視線を逸らしながら答えた。「家族と待ち合わせをする時、大体デパートが集合場所だったんだ。それで、この店に何度か入ったんだよ」と伝えた。
彼女が「仲が良いんだね」と言ったので「普通だよ」と答えた。
ゼリーの様にプニプニな小籠包を食べて、リサも少し機嫌を直してくれたようだ。
リサが「ごめんね。可愛く無い女で。」と言ってきたので、僕は「そんな事ないよ。凄く可愛いよ」と答えた。
彼女は、僕を見つめて「私もそんな風に言える様になりたい」と言ったので、「本当に思った事を言っただけだよ」と伝えたら、彼女は照れくさそうに頬を赤らめ笑顔で下を向いた。
僕は本当に頭に浮かんだ言葉を口に出してるだけだ。
相手を惚れさせようとか、自分が良く思われたいとかでは無く、その瞬間に相手も自分も、幸せになれる言葉を発しただけだ。
彼女が僕を好きなのは、良く伝わっているし嬉しかった。
本当にリサは小気味良い女性で、話して居て楽しい。
だけど世界で唯一の女性とまでは、思えなかった。
もっと沢山の女性と比べて、もしかしたら最後に彼女を選ぶ事も有るのかもしれないけど、今の時点で彼女にする必要性も、強い気持ちも、僕には無かった。
リサは僕の顔を見つめ、「ヤヨイさんは鼻が高くてとても素敵」と、羨ましそうな眼差しで語った。
僕は、リサの日本人らしい丸い鼻が好みだったので、「僕はリサの鼻が可愛くて、大好きだよ」と素直に伝えた。
そう言うと、リサの目が明るく輝き、笑顔で携帯電話を取り出した。その画面に映し出されたのは、僕が目を半開きにして寝ている姿だった。驚きに一瞬固まった。彼女が僕が知らぬ間に、僕の寝顔を撮影し、保存していたのだ。
そして、その写真を見せながら、「この顔が好きで、何度も何度も見ていたんだ」と、純粋な喜びを込めて告げられた。その無邪気な愛情表現に、僕はただただ驚きを隠せなかった。
この女は勝手に僕の寝顔を写真に撮って保存して居たのだ。
しかも、それを喜びながら「この顔が好きでずっと見ちゃう」と喜びながら無邪気に僕に伝えてきた。
僕は凄く動揺した。
もしも、この寝顔写真がネットに出回ればゴシップ騒動になる事は目に見えてる。
こんな写真を撮って、悪びれる様子も無く僕に見せてくるリサの事が、不可解で恐怖感を感じた。
今この場で、写真を消せと懇願すれば、小さな男に見られる。
写真を撮られた事を気にしてない素振りで、彼女との関係を続ければ、肝心な所で彼女には逆らえない従属関係の中で付き合う事になる。
どっちにしろ私の威厳は失墜し、彼女より下の人間と見なされた関係性が構築される。
私は完全に、彼女にしてやられたのだ。
どうにかして、彼女のご機嫌を取りつつ、今の関係を維持したまま写真を、消させ無ければならない。
今までは、彼女の事が鬱陶しくなったら、一方的に関係を切れば良いと思ってたけど、それが出来なくなった。
理不尽に関係を絶縁すれば、寝顔画像を流出させる等の報復行動を取る危険も有る。
僕はどうにか平静を装いながら、彼女の話に合わせ相槌を打ちながら過ごした。
とにかく、今思いつきで行動するべきでは無いと思ったので、何事もなかった様に会話を続けた。
この不安は胸の奥にしまって、今は記憶の中から消そうと、一切考えない様にした。
∎
紹興酒を飲みながら、このとんでもない悪女の話を聞いてた。
ムカつきで彼女が何を話して居たか覚えて居ないが、自分が如何に愛情深くて、僕を愛しているのかと言う事と、彼女を愛さない僕に対しての不満だった様に思う。
僕は酒を飲みながら、このクソつまらん話を、脳に入れない様に全神経を集中させていた。
修行僧の様に、怒りの感情を表に出さないように、言葉を左耳から右耳に聞き流そうと努力した。
どうせ、一通り喋ったら勝手に満足するのだから、ちゃんと聞く必要は無い。
奥さんの言葉を聞いてる振りして、新聞を読む旦那の精神が今こそ求められてる。
しかし、結婚経験が無い僕には、あまりに苦行過ぎた。
彼女の僕に対する不満や文句は、僕のお腹の中にドロドロとした原油の様に、ねっとりと絡みついた
ムカつきで「このクソアマ!」と平手打ちしたい気持ちを我慢しながら酒を飲み耐えた。
彼女の言葉は、バーで流れる自分の好みでない音楽や、隣に座る煩わしい客の不快な話し声へと意識を自己洗脳して聞き流し、酒の味に全神経を集中させた。
顔を引き攣らせながら、うんざりした顔で彼女の話を聞いてた。
意外な事に、彼女は僕の苛つきに全く気付いてないのか、苛つきながらも話を聞いた僕に満足してるのか、ご機嫌な様子だ。
なんだったら、歳上の女性が弟を躾ける様に、僕に女心をしたり顔で語りだした。
内容は良く覚えてないが、もっと優しくしろだとか、そういう意味合いの事だと思う。
彼女の話す内容の全てが、うざったいだけだった。
偉そうに僕を叱り付け、その言葉をしょんぼりした顔で聞いてる僕に「怒ってるだけ感謝して欲しい」だとか、ちゃっかりと自分は優しいから怒っているだけと自己正当化をしていた。
僕は少しずつ胃が痛くなるのを感じながら、アルコールを流し込んで、不快感を麻痺させた。
僕に不平不満をぶつけ、僕が不愉快な思いをした分だけ、彼女の顔には笑顔が戻り、元気になった様に感じた。
私はかなり酒に強いのに、怒りで血の流れが早くなって居たのか、人生で経験した事がないくらい急速に酔いが回った。
顔が真っ赤になり、息苦しさを感じた。
中華屋を出て、直ぐ目の前に有ったデパートの休憩スペースの椅子に腰をかけたが、グッタリして動けなくなった。
リサが水を買ってくると言って席を離れ、自販機で売ってた水を買って僕に手渡してくれた。
「大丈夫?」と心配する彼女を見て、そもそも、お前の小言を聞いてたせいだろうが!と思ったが、口には出さなかった。
多少は酔いも落ち着いて来たし、外の空気を吸いたくなったので、デパートを出て駅前の広場のベンチに向かった。
椅子に座り僕は黙って休んでた。
僕の後に着いて来たリサは、横に座った様だ。
酔いの苦しさで、彼女を気にかける余裕なんて無いし、「もう、帰っていいよ」と帰宅を促した。
機嫌の悪い女に付き合わされ、散々良い物を食わせてやったのに文句を言われ、責め立てられる始末。
しかも、その女は盗撮をする様な倫理観がぶっ壊れた女だ。
僕達が恋人同士だったり、長い時間をかけて信頼関係を築いてるなまだしも、数回一緒に飯食って、寝ただけの関係だ。
もう、このまま二度と、彼女と会わなくなっても良いと、僕は思った。
それに、こんな酔った姿を彼女に見せたく無いと思った。格好良くて、洗練された男としての体裁を守りたいて気持ちが強かった。
そして、彼女に看病させて、これ以上嫌な思いを感じて欲しくなかった。
こんな肌寒い夜に、散々文句を言い散らかした男の面倒を見るのは、彼女にとって苦痛だろうと思ったからだ。
彼女は、僕の顔を見ながら「帰って欲しいなら帰るけど、帰った方が良い?」と、尋ねて来た。
僕は彼女の眼を見た。
その眼は真っ直ぐに、僕を見て居て、何万人もの人々の生活が作り出す大都会の夜景より、遥かに美しく綺麗だった。
リサの、ただ僕を心配して側に居たいと言う気持ちと、それが迷惑に感じるなら、自分は貴方の望む様に帰ると言う意志。
自分が今後どうするかは、貴方の言葉に従うと言う思いが、視線を通して僕の中に流れ込んで来た。
長い自分の人生で、好きな様にして良いと誰かから、言われた事が今まで有っただろうか?
親も学校の先生も、誰もが首輪を嵌め、自分の思い通りに操ろうとする。そんな人間ばかりだし、自分もそうだった。
自分がやりたい様にやって、利害が一致する人とは共に行動する。
それが当たり前の世界で、彼女は僕の為にどうするか決めると、未来を僕に委ねて来た。
もう、これで会う事も無いと思っていた彼女が、急にとても優しい天使の様に見えてしまった。
僕を見てる彼女の顔と言うか眼が、綺麗で美しくなんとも言えない安心感を感じた。
リサの「帰った方が良い?」と言う問いに、僕は眼を閉じて、何と答えようか一瞬下を向いて考えた。
目を閉じた世界は真っ暗で、何も感じなかった。
でも直ぐに、彼女が僕に触れて居る事に気付いて、その暖かさに安らぎを感じた。
目を開けると彼女が僕を見ていて、眩しいくらいに光輝いてた。
僕は、彼女を見続ける事が出来ず、直ぐに視線を逸らして「側に居て欲しい」と言った。
自分が喋った様な感覚は無くて、勝手に言葉が口から出ていた。
僕は何も考える事も出来なくなって、ただ彼女の体温を感じてた。
彼女は黙って僕の横に居てくれた。
私の中で彼女は、珍しく興味をそそられた女性と言った程度の感覚で、日々の生活の中で、あまり思い出したり考える事はなかった。
そんな時に彼女から連絡を貰い、仕事終わりに会う事になった。
日本最大の金融街に有る高級デパートで待ち合わせをした。
此処なら喫茶店やレストランも有るし、高級ブランド品から日用品まで何でも売ってる。
いくらでも観るものが有るし、到着時間が前後しても何の苦にもならないからだ。
大抵の女性は遅れて来るし、特別急ぐ必要も無いのだけど、万が一に時間を厳守するタイプだと自分の品格が下がる事になる。
彼女の前では、彼女にとっての理想の男で居続ける事が、自分に出来る彼女への奉仕なので、彼女に幻滅される様な真似は出来ない。
夕方に待ち合わせをして私は時間に余裕を持って待ち合わせ場所に向かった。
移動中にリサから連連絡が有り、遅れると言う事なので、私は好きなブランド服を見たりレストランやカフェを見て店内の雰囲気を確認したりした。
女性と待ち合わせをすると、会うまでの無駄に消費される時間で、その人への思い入れの強さが分かる。
この時間を、苦に感じるか感じないかで自分の心を知ることが出来る。
さすがに会うのが二度目なのと、遅れて来る事を想定して居たのでイラつく事は無かったけど、彼女が来るのを待ち侘びる感覚でも無かった。
彼女が遅れて来た事を怒らなければ、自分の評価が彼女の中で勝手に上がる。
良い男としての立ち回りを、そつ無くやってのけ、男としての価値を高めただけだ。
彼女は私を見つけると飛びついて抱きしめて来た
そして待ち合わせ時間に遅れた事を、猫の様に甘えながら謝って来た。
私は人前で飛びつかれた事に驚いたが、条件反射で僅かに気持ち程度の抱擁をして、笑顔で彼女を受け入れた。
彼女は少し飲んでいた様で妙にテンションが高かった。こんな夕方から既に飲んでるなんて、私と会うまでに女子会でもしていたのだろうか?
もしかしたら仕事終わりに、私と会ってる可能性も一瞬頭をよぎった。
彼女から発せられる、夜の女の雰囲気がする匂い。
酔っ払った状態で待ち合わせに現れた彼女の様子は、僕がこれまで経験したことのない、都会の繁華街で遊び馴れた女性を思わせた。
エレベーター近くに有る、レストランの写真のパネルを二人で眺めながら何を食べたいか聞いた。
彼女が高級そうな店を避けながら、パネルを指差して「ここ美味しそう」と笑顔で喋る事に安心感と好感を持った。
私は家族でよく行っていたデパートのレストラン階に有る洋食屋のパネルを指差して、昔家族でよく来てた事を言って「まだ有ったんだ。懐かしい」と言った。
彼女は、「此処に行きたい」と言うので懐かしのレストランに二人で入った。
どんな料理も有るファミリー向けレストランで、お子様ランチも有るような店だが、デパートに出店してるだけ有ってクオリティーは高い。
衛生面的な事から外食嫌いの私が、安心して食べれる数少ない店のひとつだ。
私は中でもホタテのフライが好きで、此処に来ると必ずシーフードフライを頼んでいたし、今回も同じメニューを頼んだ。
リサが既に酒が入って居た事もあり、私もビールを頼み、少しのアルコールを嗜みながら食事を楽しんだ。
彼女は良く笑う人で、居心地の良い状態になると水を得た魚の様に、次から次に会話が弾む。
私は無理に話さなくても退屈を感じる事はないし、会話に困る様なタイプではない。
相手が話さなければ、幾らでも自分から会話を振る事が出来るのだけど、会話が途切れる事なく続き、その会話が全て楽しい感覚だった。
リサは、私が出会った事がないタイプで、人生観や生きて来た境遇の全てが私とは違うのが面白かった。
それに加えて、私の事にも興味を持ち適度に聞いてくる気の使い方だったりは、さすが職業として多くの人と会話してるだけは有ると思った。
彼女の持つ高いコミュニケーション力は、私にとって学べる事が沢山あった。
よく酒を飲み、美味しそうに、ご飯を食べながら見せる彼女の豊かな表情は、こっちまで強引に楽しい気分にさせるような吸引力が有った。
∎
食事を終えレストランを出ると、リサがタバコを吸いたいと言うので喫煙ルームに移動した。
私はタバコを吸わないので部屋には入らず扉の外で待っていた。
何もする事が無い時間が、やけに長く感じて周囲を見渡してると、私と同じ様に人を待ってる女性が居た。
恐らく彼女も、彼氏がタバコを吸い終わるのを待っているのだろう。
その女性は、うんざりした顔をしていたので長い時間、ここで彼氏が来るのを待って居る事が伝わった。
リサは一向に戻って来ない。喫煙ブースの中で、電話でもしながらタバコを吸っているのだろうか?
やけに長い時間待ってる気がした。
退屈の苦痛に耐えていると、同じ様に待ってた女性と目が合って「お互いに大変ですね」と、視線で遣り取りした。
きっと、あの女性は喫煙者の彼氏と付き合ってる間に、今のように何度も待ち続けて居るんだろう。
私がリサと会えば、同じ様に退屈な時間を過ごす事になる。
今は良くても、何回も繰り返し待ち続ける事が、自分には出来るのだろうか? と、疑問に感じた。
そんなことを考えていると、リサが戻ってきた。彼女は笑顔で「お待たせ」と言いながら、僕の腕に絡みついた。
彼女から漂ってくるタバコの匂いに、僕は少し気分が悪くなった。
脳みそにニコチンを補充したリサと、デパートを後にして銀座の街を見て回った。
金融街に来るのは金持ちばかりで、高そうな服で着飾ってる人が多い。
リサは、渋谷の若いギャルがよく着ている様な、花柄のキャミソールの上から、日焼け対策の黒い薄手のフードの付いたコートを着ていて、ぱっと見はローブをまとった、魔女か占い師の様な個性的な格好をしてた。
対照的に私は、流行りのスーツ姿で、リサは自分だけ場違いな格好を恥ずかしそうにしてた。
私は、そんなリサを気遣って積極的に話しかけた。
リサと話せる事が楽しかったし、この街では良い女を連れて居るだけで価値が上がる。
彼女の格好は個性的でも、大抵の男達が良い女と認識する雰囲気の様なものが有った。
ランウェイを歩くモデルの様に、ただ一緒に歩くと言う、何気ない日常の動作で人の目を惹きつける立ち振る舞いが出来る女性だ。
彼女は一緒に居るだけで、周囲からの評価を上げてくれるタイプの女性だ。
滲み出る都会の夜の女の雰囲気と、高価な女感を前面に出し過ぎない慎み深さ、それらを個性的な衣装で隠してる雰囲気が、上手い具合に調和されてた。
普通じゃないけど、気取って無い見え方が、頑張れば手が届きそうな高価な品の様で、一度は抱いて見たいと男達に思わせる、一番口説きたくなる女性感が有った。
男がもしも浮気するなら、こう言う女性とするんだろうなと思わす魅力があった。
∎
二人で当てもなく銀ブラしていると、公園にたどり着いた。
公園と言っても大都会のビルに囲まれたベンチと木が植えてあるだけの、ちょっと座れる休憩スペースみたいな所だ。
すぐ前には大通りが有って、バスのクラクションやスーパーカーの排気音がけたたましく鳴り響く。
それでも、この繁華街では静かな憩いの場に思えた。
私たちは腕を組んだまま、ベンチに座って休憩した。その時、リサが甘えた声でお酒を飲み過ぎたことを謝り、自分も食事代などを負担すると提案した。
彼女の可愛らしい態度と、優しさが嬉しかった。
ただ、かなり酔ってるのに会話が成立してるのが、酔った演技をしてる気もして、やはり油断ならない上手な女性という警戒感を私に芽生えさせた。
その警戒する気持ちは、自分に害を与えるものでは無く、相手の知能に対する尊敬や敬意に近いもので、私はリサに対して好感を持って居た。
リサは自分の事をどう思うかと尋ねて来たので、私は「やっぱり話し慣れてる。心を掴んでくるのが上手くて驚いた」と伝えた。
彼女がじっと私の顔を見つめていた。その視線に気づき、私が彼女を見返すと、リサはゆっくりと口を開いた。
「私、そういう風に思われがちなんだけど、ほんとに遊んでるわけじゃないの。」
彼女の言葉は、自分の事を男慣れした、ふしだらな女と決めつけた私への抗議だった。
リサの瞳は真剣で、いつもより低い声には微かな震えが聞こえた。
リサは、今まで自分が真面目な恋愛しか、してきたことが無い事を強調し、お酒の勢いで軽率な行動をとるような女性ではないと、力強く訴えた。
そして彼女は、まるで自分が遊び人と誤解されているかのように感じたのか、元彼について話し始めた。
リサは夜の営みもない状態で、収入がろくに無い元彼と、五年間も同棲して居たと言うのだ。
自分の家に転がり込んで来た彼を追い出せず、時間を無駄にしたと怒り混じりの表情を滲ませた。
同棲経験がない私からすれば、二十歳そこそこの若さで同棲するなど、考えられないことだ。
ましてや五年間も同棲してたなんて、良くお互いの親が許したなと不思議に感じた。
だけど、リサが男女の関係とは一線を画した感覚で、元彼と長い間同棲していたという話には、一定の信憑性があった。
それは、私と彼女が初めて一夜を共にしたとき、彼女がとても喜んでいたからだ。
彼女が色々と我慢しながら、そして傷つきながら生きてきたのだろうと、私は感じた。
そう思うと、私とは全く違う人生を歩んできた彼女の頑張りに、深い尊敬と愛情を感じるようになった。。
彼女の元彼に対する愛情と優しさの様なものに好感を感じたのだと思う。
それは、私自身にとっても不思議な感覚だった。
ほんの数分前までは、自己の成長に役立つ女性という理由で、接していたのに、突如として彼女への感情が愛しさに変わっていた。
リサが僕の事を好きなのは良く分かって居たので、僕は何一つ遠慮する事なく、彼女を強く抱きしめた。
彼女の頭に、頬ずりしながら優しく「ヨシヨシ」と言って慰めた。
リサは涙を拭きながら僕を強く抱きしめた。僕もリサを強く抱きしめると、彼女の体温と香りが伝わった。
彼女の匂いは、タバコを吸って居るからか、お香の様な深い甘みと煙たさが混じった、一言で言い表わせば魔女とか、顔を隠すイスラム教徒の女性が漂わせてる様な、エスニックな香りがした。
彼女の妖しい雰囲気に、良く似合う香りで、あまり普通の人は漂わせない匂いが漂ってた。
リサの体温を感じていると、居心地が良くて僕はずっと彼女を抱きしめてた。彼女は何も喋らなかったし、僕も喋る事が思い浮かばなかった。
彼女の流す涙の意味は良く分からなかった。
元彼を思う愛情の涙なのか、彼を恨む憎しみの涙なのか。
それとも私の優しさに対する涙なのか…
僕はリサの事が愛しくて堪らなくなったので、「今日は一緒に居てくれる?」と上目遣いで甘えながら言った。
するとリサも優しい声で、大事な子供をあやすように「いいよ」と言ってくれたので、僕の家に連れて行く事にした。
∎
私の住んでいるマンションは駅からは遠いものの、複合施設内にあって、マンションからオフィスビル、病院、スーパーまで、必要なものがすべて揃っている。
親が社会的トラブルを避け、私を飼うために用意した住居だ。
この近所では、働いている人と高齢者しか見かけない。まるで結界が張られたような、孤立した都市型集合住宅で、どことなく異質な感じがする。
ただ、一見すると綺麗な外観を持ち、都会の裕福な住人が暮らす理想的な住まいのように見える。
その事を、僕も理解して居たし、やっぱりリサも目を輝かせて「良いところね」と喜んで居た。
実際に住んでみると、閉鎖的な空間に飽きてしまう。しかし、初めて訪れる人にとっては、都会的な雰囲気を満喫できる場所だ。
敷地内にある倉庫の様に広い大きなスーパーで食材や、リサがお泊りするのに必要な歯ブラシ等を買い自宅に戻った。
彼女はすっかりご機嫌で、終始楽しそうな様子だった。それを見て、私も嬉しくなった。
高層マンションの上階に有る自宅に着いてから、「風呂に一緒に入ろう」と、僕がリサに提案した。
彼女は少し照れくさそうに頷いた。ゆっくりと浴室に足を踏み入れ、お互いに躊躇しながら服を脱いだ。身体を隠すように、僕たちはすばやく浴槽に浸かった。
浴槽は僕たち二人にとってはやや狭く、彼女を抱きかかえながら湯船に浸かり、お互いに髪の毛や身体を洗いっこした。
初めてホテルに行ったときは、財布を盗まれないために一緒に風呂に入ったけれど、今回は心から一緒に入りたいと思った。
生きていれば楽しく無い事や、辛い事の方が多い。
彼女が居る、いつもと違う状況に疲れや気苦労を、感じそうなものだけど、彼女が居た方が楽しくて心地が良かった。
それは、私にとっては凄く珍しい事で、実家に帰った時に、親や妹が居ても少しの負担を感じる。
一人でいる時より幸福感を感じ、何の負荷も感じない自分に驚いた。
リサが首を絞めて欲しいと頼んで来たが、彼女が心筋梗塞でも起きたら一大事だ。
私が「捕まりたく無い」と断ると、「私がお願いしたと、紙に書いとく」と得意げな顔をして言って来た。
やっぱり、この女は馬鹿なんだと思って「いや、紙に書かれても捕まるから」と笑いながら却下した。
それに首を絞められながら快楽を感じたいなら、それ以上の気持ち良さを、刻み付けたい。
私は酸素を遮断する目的じゃなく、彼女が咳き込むように喉仏の上を押さえた。
喉の異物感を排除する様に、咳が込み上げ彼女が咳き込んだ。
身体の酸素を出し切ったタイミングで、私は彼女の口を咥え込んだ。
無条件で酸素を求める彼女の身体は本能のままに、私の体内に残る酸素を強引に吸い上げた。
暗い海の底に沈んだ彼女に、口渡しで酸素を届ける様に、私の体内の臓物臭が充満してる、吸い殻の廃棄酸素を、彼女にたっぷりと吸わせてやった。
∎
ミルクで浸したガラス製の水差しに、挿した赤い薔薇も萎れた頃。
私は静かな闇の中で意識が回復した。
数秒前まで見ていた夢の内容は思い出せなかった。
隣で寝てたリサが、うめき声を発して暴れ出した。
私を手で払い除け、寝たままの格好で天井に手を伸ばし、空を掴むように、唸りながら手を動かしていた。
何か猛獣にでも襲われてるような印象で、彼女は額に沢山の汗を滲ませ苦しそうだった。
変に起こして、脳の休みを遮断するのも悪いと思い放置してた。
ただ、あまりにも苦しそうに、長い時間うなされてるので、私は子猫をあやす女性の様に「ヨシヨシ」と、少し明るめに静かな声で言いながら、ビッショリと汗に濡れた彼女の頭を、優しく撫でた。
彼女は一瞬起きた様で、凍った様に硬直し動きを止めた。
数秒間の沈黙は、さっきまで聞こえていた、うめき声が無くなったせいか、キーンと耳鳴りがしそうなくらい静寂を感じた。
そして、彼女は私に抱きつき一瞬で悪夢を忘れて、また寝たようだった。
私自身も昔は良く悪夢を見ていたし、一人で寝てる時に、うなされてるかなんて自分では分からない。
だから特別、何も思わなかったけど、リサの太ももに刻まれてる椿のタトゥーと、左腕のリストカットの跡が、妙に印象に残った。
私は、彼女の頭を、撫でながら思った。
今は、ゆっくりお眠り、眠り姫。嫌な夢は、すぐにまた見る事になるのだから。
∎
僕達二人は、ほぼ同時に起きた。
私は珈琲を淹れる為に台所に向かった。
鉄瓶で湯を沸かしながらリサを見ると酷くみすぼらしい格好をしてた。
髪はボサボサで艶がなく、栄養不足で枯れ果てた稲穂みたいだ。幸せも元気も失調してる不機嫌な心が、顔に出てた。
対照的に僕は体調が良く、ご機嫌なのは、きっと彼女のおかげだと思い、感謝の気持ちを込めて彼女に優しくしようと思った。
珈琲に砂糖を入れるか聞くと、普段彼女はそんなに珈琲を飲まないから、良く分からないらしい。
喫茶店で飲む時は砂糖入れてると言いながらリサは考え込んでいた。
心にへの問いかけを終えて「少し甘いのが飲みたいかな」とリサは答えた。
僕が、豆乳有るけどミルクの代わりに入れるか聞くと、彼女は目を丸くして喜び「入れる!」とはしゃいでいた。
彼女が美味しそうに珈琲をすすりながら、「美味しい」と口にする。その様子を見ながら僕も珈琲を手に取った。
今日は何して遊ぶかを二人で話し合った。私が一度はやってみたいデートプランの候補をいくつか提案した。
私は無駄な金は使いたく無いし、無意味な時間を過ごすのも嫌だ。
私がリサにデートを提案したのは、デート後に自然な形で別れ、家に居座られるのを防ぐ為だ。
そして、もし将来、本当に私が大切にしたいと思える女性と出会ったら、その時に彼女との経験が活かせるだろうと思った。
結局、ダラダラと話し込んでみたものの、やってみたい事が多過ぎて何をするかイマイチ決まらないので、準備しながら考える事になった。
彼女がシャワーを浴びてる間に、顔を洗ったり、ささっと準備を済ませた。
彼女は何をするにも時間がかかり、化粧や髪のセットなど、けたたましくドライヤーの轟音を響かせながらメイクをして居た。
子供の頃に父親と準備の長い母親を車の中で文句言いながら待っていた事を思い出し、女の準備は時間はかかるモノだと、苛々しない様に、自分に言い聞かせた。
パソコンを開き仕事を片付け終えても、彼女はまだ身支度を整え終えて無い様だった。
無駄だと分かって居ても、早くして欲しい事を伝えた。やはり全く意味が無く、私の苛立ちが増すだけだった。
彼女は煙草を吸うと家からと、空いたペットボトルを持って外に出た。玄関を出た先にある非常階段でタバコを吸うらしい。
リサの身支度を無駄に待ってても、イライラするだけなので、仕事に集中していると、彼女の存在をすっかり忘れて居た。
ノートパソコンをバタンと閉じると部屋が静まりかえっていた。
私は、リサの事が心配になり玄関を出て非常階段を確認した。
二四階建のマンションに備え付けられた非常階段は、金属製の螺旋階段で、落下防止のために柵で覆われており普段は誰も使わない。
造りも安易で、経年劣化で壊れないか不安なくらいだ。
本当に非常時以外はエレベーターや、別の階段を使うだろう。
そんな階段に座り外を見ながら彼女はタバコを吸って居た。
ちょうどマンションの真ん中の十二階に住んでるので、結構な高さが有り、眺めは良いものの、ビル風の強風で、空気は冷たく居心地は悪そうだ。
「寒くない?」と私が聞いても、彼女は静かに首を横に振り、「大丈夫」と微笑んで答えた。彼女は外の景色を眺めていた。
さっきまでボサボサだった彼女の髪も、丁寧にアイロンがかけられ、一本一本が艶やかに輝いていた。
準備が出来てるなら早く言えと思ったが、彼女は彼女でお気に入りの場所でタバコを吸いながら、私の仕事を邪魔しない様に気をつかって居てくれたのかもしれない。
ペットボトルにタバコの灰をしまい、彼女は玄関から家に中に入って来た。
リサが家に入って来た瞬間にタバコの煙臭い臭いがした。
彼女が布が多い服を着てるからなのか、引き連れて来た煙の量が多くて、部屋中が有害物質で汚染され、僕は思わず咳き込んでしまった。
リサ自身は良い匂いなのだけど、彼女が着ている衣服に纏わりついた毒物の臭いで気分が悪くなって少し目眩がした。
彼女が心配そうに覗き込んで来たので、正直に「タバコの臭いで気分が...ごめん」と謝った。
彼女が着ている衣服に視線を送って、リサ自身の臭いではない事を示唆したけど、彼女が傷付かないか心配だった。
やっぱり、少し驚いてショックそうな顔をしながら一瞬自分の服を嗅いで居た。
彼女の口からもタバコの臭いがして、自然と少し距離を取る様になった。
リサは、すぐに僕の異変に気付いて、落ち込んだ様な表情をしてた。
彼女は洗面所に行き、口を濯いで戻って来た。
彼女が僕の事を気遣ってくれたのが嬉しかったし、彼女自身の匂いは大好きなので優しく抱き寄せ口付けをした。
キスをすると、もっと彼女と接触したくなったけど「はい。行くよ」と外出を求められ、僕は名残惜しい気持ちを抑えて家を出た。
あれこれと準備をしていたら、いつの間にかおやつの時間を過ぎていた。お昼ご飯もまだ食べていなかったので、まずは何か食べようという話になった。
結局、近くの小さな喫茶店に入ることになった。店内は昔ながらの落ち着いた雰囲気で、静かなピアノ音楽が流れてる。
簡単な軽食とコーヒーを飲みながら談笑していると、テーブルの上に置いてある彼女の携帯電話のバイブレーターが振動した。
彼女は携帯を見て電話の主を確認すると、短く深呼吸した後に振動し続けている携帯電話をテーブルの上に置いた。
着信が止まっても、また直ぐに電話が着信を知らせるように振動して相手を確認した後、彼女は電話をテーブルに戻す。この一連の動きが五分間隔で何度も繰り返された。
リサがあえて電話に出ない様にしてる事は分かったし、僕もあえて何も聞かなかった。
恐らく、元彼からの連絡なのだろうと予想は付いていたし、僕とリサは恋人関係にある訳じゃない。
彼女が他の男と、どんな関係に有ろうと僕には関係ない。
ただ、僕に判る様に、あえて携帯電話をテーブルの上に置いて、電話がしつこく掛かってくる事を示して居たので、「本当に出なくて大丈夫なの?」と聞いた。
リサは「何度かけるなと言っても、電話をかけて来て困ってる」と怒った表情を見せた。
彼女を見て僕は、完全に新しい彼氏が出来るまでは、元彼との付き合いを維持するタイプの女性なんだなぁ、と思った。
それを僕に態々分かる様に、携帯を見せるのは、嫉妬させようとしてるのだろうか?
彼女のソワソワした態度が、賭け事でもしてるかの様に、僕の様子を気にしてる感覚がして、何を企んでるのか良くわからなかった。
確実なのは、僕に元彼の話をしたいんだなと思ったので、電話の主について聞く事にした。
リサと初めて会った夜に、僕と名前を間違えて呼んだ男の人だろうと、思ったので「その人が前に名前間違えて呼んだ人?」と聞いた。
リサは頷いて、「もう別れてるし、連絡しないでって言ってるのに電話を掛けて来て困ってる」と言った。
僕は彼女を心配する顔をしながら「かけてくるなて言ってるのに、何度も掛けてくるのは迷惑だね」と言った。
電話ぐらい迷惑ならブロックすれば良いし、別れてずっと関わりが無ければ自然に人間関係なんて切れる。
電話を何度も掛けてくるのは、別れて日が浅いか、彼女が何かしらの付き合いを続けてるからだろうと感じた。
ただ、彼女が、自分は被害者だと言いたげなので、僕に出来るのは、彼女が演じたい役を尊重して盛り上げる事だけだ。
僕はリサに「ストーカーになる人も居るし気をつけて。困ったらいつでも助けるから、ちゃんと言ってね」と伝えた。
彼女は安心した表情で、嬉しそうにコーヒーを飲んでた。
安心したのは、リサは悪くない、可哀想な被害者だと、僕に肯定されたからなのか、元彼から守ると言った僕に満足をしたのかは分からない。
彼女の身に危険は無いと、表情から感じたので僕も安心した。
あざとい所が、面白いし刺激が有ってちょうど良い。こういう女だと分かってたし、それが彼女の魅力でもあった。
それに、なんだかんだで、僕自身がリサの事を大切には思っている事を実感した。
リサは黒いダークなデザインのネイルをして居て、金色のブロンドヘアーを、かき上げるたびに黒いネイルのラメがキラキラと反射した。
僕の視線にリサは気付いてた。それでも僕は彼女の仕草を見続けて居た。
リサが「そろそろ髪を切らなきゃ」と言ったので、「俺もそろそろ切りたい」と答え、一緒に美容院に行く事にした。
僕がよく行ってる銀座の美容院に電話してみると、偶然空きがあり二人で電車に乗り美容室に向かった。
∎
美容院に着くと、僕とリサは隣の席とは言え四メートルは、離れたソファーにそれぞれ座って髪を切った。
僕とリサは近くて遠い距離で、話す事は出来ない。
それぞれに担当が付いて髪を切るので、隣には居るのに、互いに目が合う事も話す事も無い状況だ。
さっきまで喫茶店で話してたリサと、引き離され個別に髪を切るシュチュエーションに、少し寂しい様な不思議な感覚を受けた。
いつもの担当の女性に、リサの事を「彼女さんですか?」と聞かれたので、「いえ、友達です」と答えた。
答えた後に、リサに聞こえたか気になった。
別に嘘はついてないけど、リサはどう思うんだろうか?
もっと良い答え方が有ったんだろうか?
なぜか、そんな事が気になった。
一瞬彼女の方を見たけど、後ろ姿しか見えず、彼女は彼女で自分の担当の人と話してる様だった。
ただ、何となく彼女の美容師と話してるトーンや仕草で、聞こえただろうなと感じた。
僕自身も、聞こえて良い様に、はっきりと答えたし、ありのままの事実を答えただけで、リサに聞こえて困る内容じゃ無かった。
美容室を出て、なんとなく繁華街の方に歩きながら、これから何するかを話し合った。
いつもなら直ぐに手を繋いで来るのに、そう言うのも無く、やっぱりいつもと彼女の態度が、何か違う様な気がした。
妙に早歩きで、目の前の信号が点滅して赤に変わろうとしてるのに突っ切ろうとした彼女の腕を掴み止めた。
人が多く、誰もが急いでるこの街では、自分が青信号になった途端に歩行者が居ようが、けたたましいクラクションを鳴らし一斉に車が走り出す。
するとリサは僕の腕を払い除けて、苛立ちながら「私は渡れるから進んでるの!」と怒りながら叫んだ。
僕は黙って、怒る彼女の少し後ろを着いて歩いた。
少し彼女との距離を縮めて「何処に向かってるの?」と、尋ねたが何も答えなかった。
彼女の後を着いて歩きながら僕は街を見て居た。
リサの事は気になって居たし、仲良く話したいとは思ったけど、強引に機嫌を治す方法が思いつかなかった。
それに、いつもより無愛想と言うだけで、彼女といる事に苦痛を感じてなかった。
歩くのも平気だし、街を目的も無く歩く事に退屈を感じてなかった。
彼女が、この後どうするのかにも興味があったし、流れに身を任せて、彼女の後を着いていった。
ちょうど信号で二人の足が止まったタイミングで、リサに「お腹減らない?」て尋ねた。
彼女が「お腹減ったの?」て聞いてきたので「ちょっと」と、情けない捨て猫がオヤツを、オネダリするように可愛い感じで答えた。
リサが笑顔で何を食べに行こうかと聞いて来たので、今まで食べきた中で、人生で一番美味しかった小籠包屋か、オムライスの美味しい店なら知ってると答えた。
リサは、小籠包を食べて見たいと言う事で、デパート最上階の中華料理屋に行った。
椅子はゆったりとした大きなソファーで、高いと言えば高いが、そこまで高く無いデートで出せる、ちょっと良い夕食の値段という感じだ。
店内はチャイナというよりはアジアン•モダンな造りで、大人のデートにぴったりの良い店だ。
リサが驚いた表情を見せて「どうしてこんな店を知ってるの?」と尋ねた。
私は少し恥ずかしく感じて視線を逸らしながら答えた。「家族と待ち合わせをする時、大体デパートが集合場所だったんだ。それで、この店に何度か入ったんだよ」と伝えた。
彼女が「仲が良いんだね」と言ったので「普通だよ」と答えた。
ゼリーの様にプニプニな小籠包を食べて、リサも少し機嫌を直してくれたようだ。
リサが「ごめんね。可愛く無い女で。」と言ってきたので、僕は「そんな事ないよ。凄く可愛いよ」と答えた。
彼女は、僕を見つめて「私もそんな風に言える様になりたい」と言ったので、「本当に思った事を言っただけだよ」と伝えたら、彼女は照れくさそうに頬を赤らめ笑顔で下を向いた。
僕は本当に頭に浮かんだ言葉を口に出してるだけだ。
相手を惚れさせようとか、自分が良く思われたいとかでは無く、その瞬間に相手も自分も、幸せになれる言葉を発しただけだ。
彼女が僕を好きなのは、良く伝わっているし嬉しかった。
本当にリサは小気味良い女性で、話して居て楽しい。
だけど世界で唯一の女性とまでは、思えなかった。
もっと沢山の女性と比べて、もしかしたら最後に彼女を選ぶ事も有るのかもしれないけど、今の時点で彼女にする必要性も、強い気持ちも、僕には無かった。
リサは僕の顔を見つめ、「ヤヨイさんは鼻が高くてとても素敵」と、羨ましそうな眼差しで語った。
僕は、リサの日本人らしい丸い鼻が好みだったので、「僕はリサの鼻が可愛くて、大好きだよ」と素直に伝えた。
そう言うと、リサの目が明るく輝き、笑顔で携帯電話を取り出した。その画面に映し出されたのは、僕が目を半開きにして寝ている姿だった。驚きに一瞬固まった。彼女が僕が知らぬ間に、僕の寝顔を撮影し、保存していたのだ。
そして、その写真を見せながら、「この顔が好きで、何度も何度も見ていたんだ」と、純粋な喜びを込めて告げられた。その無邪気な愛情表現に、僕はただただ驚きを隠せなかった。
この女は勝手に僕の寝顔を写真に撮って保存して居たのだ。
しかも、それを喜びながら「この顔が好きでずっと見ちゃう」と喜びながら無邪気に僕に伝えてきた。
僕は凄く動揺した。
もしも、この寝顔写真がネットに出回ればゴシップ騒動になる事は目に見えてる。
こんな写真を撮って、悪びれる様子も無く僕に見せてくるリサの事が、不可解で恐怖感を感じた。
今この場で、写真を消せと懇願すれば、小さな男に見られる。
写真を撮られた事を気にしてない素振りで、彼女との関係を続ければ、肝心な所で彼女には逆らえない従属関係の中で付き合う事になる。
どっちにしろ私の威厳は失墜し、彼女より下の人間と見なされた関係性が構築される。
私は完全に、彼女にしてやられたのだ。
どうにかして、彼女のご機嫌を取りつつ、今の関係を維持したまま写真を、消させ無ければならない。
今までは、彼女の事が鬱陶しくなったら、一方的に関係を切れば良いと思ってたけど、それが出来なくなった。
理不尽に関係を絶縁すれば、寝顔画像を流出させる等の報復行動を取る危険も有る。
僕はどうにか平静を装いながら、彼女の話に合わせ相槌を打ちながら過ごした。
とにかく、今思いつきで行動するべきでは無いと思ったので、何事もなかった様に会話を続けた。
この不安は胸の奥にしまって、今は記憶の中から消そうと、一切考えない様にした。
∎
紹興酒を飲みながら、このとんでもない悪女の話を聞いてた。
ムカつきで彼女が何を話して居たか覚えて居ないが、自分が如何に愛情深くて、僕を愛しているのかと言う事と、彼女を愛さない僕に対しての不満だった様に思う。
僕は酒を飲みながら、このクソつまらん話を、脳に入れない様に全神経を集中させていた。
修行僧の様に、怒りの感情を表に出さないように、言葉を左耳から右耳に聞き流そうと努力した。
どうせ、一通り喋ったら勝手に満足するのだから、ちゃんと聞く必要は無い。
奥さんの言葉を聞いてる振りして、新聞を読む旦那の精神が今こそ求められてる。
しかし、結婚経験が無い僕には、あまりに苦行過ぎた。
彼女の僕に対する不満や文句は、僕のお腹の中にドロドロとした原油の様に、ねっとりと絡みついた
ムカつきで「このクソアマ!」と平手打ちしたい気持ちを我慢しながら酒を飲み耐えた。
彼女の言葉は、バーで流れる自分の好みでない音楽や、隣に座る煩わしい客の不快な話し声へと意識を自己洗脳して聞き流し、酒の味に全神経を集中させた。
顔を引き攣らせながら、うんざりした顔で彼女の話を聞いてた。
意外な事に、彼女は僕の苛つきに全く気付いてないのか、苛つきながらも話を聞いた僕に満足してるのか、ご機嫌な様子だ。
なんだったら、歳上の女性が弟を躾ける様に、僕に女心をしたり顔で語りだした。
内容は良く覚えてないが、もっと優しくしろだとか、そういう意味合いの事だと思う。
彼女の話す内容の全てが、うざったいだけだった。
偉そうに僕を叱り付け、その言葉をしょんぼりした顔で聞いてる僕に「怒ってるだけ感謝して欲しい」だとか、ちゃっかりと自分は優しいから怒っているだけと自己正当化をしていた。
僕は少しずつ胃が痛くなるのを感じながら、アルコールを流し込んで、不快感を麻痺させた。
僕に不平不満をぶつけ、僕が不愉快な思いをした分だけ、彼女の顔には笑顔が戻り、元気になった様に感じた。
私はかなり酒に強いのに、怒りで血の流れが早くなって居たのか、人生で経験した事がないくらい急速に酔いが回った。
顔が真っ赤になり、息苦しさを感じた。
中華屋を出て、直ぐ目の前に有ったデパートの休憩スペースの椅子に腰をかけたが、グッタリして動けなくなった。
リサが水を買ってくると言って席を離れ、自販機で売ってた水を買って僕に手渡してくれた。
「大丈夫?」と心配する彼女を見て、そもそも、お前の小言を聞いてたせいだろうが!と思ったが、口には出さなかった。
多少は酔いも落ち着いて来たし、外の空気を吸いたくなったので、デパートを出て駅前の広場のベンチに向かった。
椅子に座り僕は黙って休んでた。
僕の後に着いて来たリサは、横に座った様だ。
酔いの苦しさで、彼女を気にかける余裕なんて無いし、「もう、帰っていいよ」と帰宅を促した。
機嫌の悪い女に付き合わされ、散々良い物を食わせてやったのに文句を言われ、責め立てられる始末。
しかも、その女は盗撮をする様な倫理観がぶっ壊れた女だ。
僕達が恋人同士だったり、長い時間をかけて信頼関係を築いてるなまだしも、数回一緒に飯食って、寝ただけの関係だ。
もう、このまま二度と、彼女と会わなくなっても良いと、僕は思った。
それに、こんな酔った姿を彼女に見せたく無いと思った。格好良くて、洗練された男としての体裁を守りたいて気持ちが強かった。
そして、彼女に看病させて、これ以上嫌な思いを感じて欲しくなかった。
こんな肌寒い夜に、散々文句を言い散らかした男の面倒を見るのは、彼女にとって苦痛だろうと思ったからだ。
彼女は、僕の顔を見ながら「帰って欲しいなら帰るけど、帰った方が良い?」と、尋ねて来た。
僕は彼女の眼を見た。
その眼は真っ直ぐに、僕を見て居て、何万人もの人々の生活が作り出す大都会の夜景より、遥かに美しく綺麗だった。
リサの、ただ僕を心配して側に居たいと言う気持ちと、それが迷惑に感じるなら、自分は貴方の望む様に帰ると言う意志。
自分が今後どうするかは、貴方の言葉に従うと言う思いが、視線を通して僕の中に流れ込んで来た。
長い自分の人生で、好きな様にして良いと誰かから、言われた事が今まで有っただろうか?
親も学校の先生も、誰もが首輪を嵌め、自分の思い通りに操ろうとする。そんな人間ばかりだし、自分もそうだった。
自分がやりたい様にやって、利害が一致する人とは共に行動する。
それが当たり前の世界で、彼女は僕の為にどうするか決めると、未来を僕に委ねて来た。
もう、これで会う事も無いと思っていた彼女が、急にとても優しい天使の様に見えてしまった。
僕を見てる彼女の顔と言うか眼が、綺麗で美しくなんとも言えない安心感を感じた。
リサの「帰った方が良い?」と言う問いに、僕は眼を閉じて、何と答えようか一瞬下を向いて考えた。
目を閉じた世界は真っ暗で、何も感じなかった。
でも直ぐに、彼女が僕に触れて居る事に気付いて、その暖かさに安らぎを感じた。
目を開けると彼女が僕を見ていて、眩しいくらいに光輝いてた。
僕は、彼女を見続ける事が出来ず、直ぐに視線を逸らして「側に居て欲しい」と言った。
自分が喋った様な感覚は無くて、勝手に言葉が口から出ていた。
僕は何も考える事も出来なくなって、ただ彼女の体温を感じてた。
彼女は黙って僕の横に居てくれた。