スウィート・ギムレット
わずかな沈黙の間、円の頭の中には了吾との、かつての‘さようなら’が浮かんだ。
二人の間の過去の‘さようなら’が、早かったのかどうかを円は振り返ってしまいそうになる。
話し合って納得していた十五年以上前。幼すぎるとは言わないけれど幼かった。本当に二度と顔も見たくないほどに別れたかったのではなかったけれど。

それでも‘そのとき’は、‘そうするしかなかった’のだ。
社会人になったばかりで世界が広がって、学生時代とは違うことの連続で、いろんなものが変化していった。自分自身も。
取り戻したいものなんて一つもない。あのさようならは、必然だった。自分をなだめながら、円はまた甘いギムレットを口に含んだ。

「俺はいつでも大歓迎だけど」

漫画だったら、そのセリフの最後にはハートマークがついていそうなノリで了吾が言った。
円は顔をしかめる。何を言ってるの、というのはその表情だけで伝わっただろう。
彼のこういうところが、不安だった。調子よくて、みんなを笑わせて、どこでも楽しく過ごせて、どんどん世界を広げて行ってしまうところ。タフで、図太くて、無神経だと思うこともあるほど。
それでもこういうところが好きだった。いつだって明るくて、まぶしくて、人を惹きつけて、誰とでもどこにでも行けてしまいそうなところが。

円は懐かしい時間に一瞬だけ想いを馳せる。過ぎた時間。それが今ここにある。失くしたものが今またここにある。このまま永遠に掴んで離したくない、なんてことはないけれど。

見ると、彼はまたジンライムを口に含んだ。その横顔、立派な喉ぼとけ。たくましい肩幅のわりに、繊細な手首のライン。かつて自分に触れていたその手が、今この夜にとてもきれいに溶け込んでいた。

─いつでも大歓迎だけど。

彼の言葉が少しお酒の回った頭に柔らかく浸透する。
了吾はそれ以上を言わずに、まるで少年のように爽やかな笑顔でどこか遠いビルを見ていた。
懐かしい横顔で、いいスーツを着て、ちょっと高そうな腕時計をして、年相応の皺を顔に刻んでいた、自分の知らない時間を過ごしてきた了吾。
その彼と変わらずに友達を交えて会うことができて、お互いに冗談も言えて、懐かしい話をすることもできる。こんなに気楽に、安心して会うことができる相手が目の前にいる。大人になればなるほど、そういう存在がどれだけ貴重なのかはわかっていた。

それでも、と円は口を開く。

「ううん、今はたまにこうしてお酒を飲むくらいがちょうどいいわ。」

それはあらゆる出来事、感情が混ざり合った、もしかしたらずるい返事なのかもしれない。あなたと二人で会うことができないと言えば終わる話を終わらせない。自分を受け止めて欲しいと言えば進められる話を進めない。たまにお酒を飲む関係の曖昧さは、お互いによくわかる年齢だった。

それでも適当にあしらわれて、断られるつもりだった了吾は拍子抜けしていた。
また会ってくれるんだ、と顔に書いてあるみたいな了吾の表情がおかしくて円はつい笑った。
視線を落とすと、グラスのカクテルに灯りとガラスが反射してきらきらと光っている。そこには取り戻したかった時間ではなくて、違う新しい何かが光っている。まばゆい夜景とも憧れた宝石とも違う、それでももうちょっと見ていたいきらめき。

「じゃあ、また連絡する」

了吾がぽつりと言う円はうん、とだけ頷く。
こんな日があることを考えたこともなかった。また会うことはあるかもしれないと思ったけど、まさかこんなふうに、これ以上の期待も失望も持たないでいいままで、ただ穏やかに、やさしい時間を共有できる日が来るなんてこと。生きているとそんなことも起こりうることを、知らなかった。
イエスかノーしか知らなかったあの若かった自分には。

了吾はもう一度、確認するように静かに言った。

「じゃあまた、近いうちに」

期待も失望も、これ以上もこれ以下もない。それでも物語の続きを信じている顔。ただ、また続きがあるんだ、という顔。
OKの返事の代わりに円は僅かに頷いて、再びグラスに口をつける。わずかに白く霞む甘いギムレットがゆっくりと身体に染み渡ってゆく。爽やかで、軽快で、ドライで、それでいてメロウな甘みを含む。
それは思っていたよりも、悪くなかった。
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