パラノイド・パラノイア

私を呼んで

それから意識が混濁するまで飲み続け、目を覚ましたら悠くんと同じベッドに……という展開はなく、酔っ払い二人はどうにかタクシーを捕まえてそれぞれのマンションやアパートまで無事に帰ってきた。
今夜は飲もう、とはお互いに決めた。だが記憶を失くすほど飲むなんて大学生でおしまいにすべきだし、社会人なら自分の容量を見極めておかないと。

「明日は二日酔いだなぁ……」

小声だと思っていた一人言は、アパートの入り口でわりかし大きく響いた。いや不味いなこれ。明日辺りにご近所さんから文句言われるんじゃないのこれ。
頭の奥底にまだ残っていた冷静な部分が、警告を次々に出してくる。けど身体はちっとも聞かずに、自分の郵便ポストを「オープン!」と開けてしまった。

『人殺し』

耳元でざぁっと血の気が引く音がする。視界が一瞬で黒い染みみたいなのに覆われて、尻もちをつく寸前でどうにか耐えた。
目を強くつむって、数秒間だけ何も考えずに深呼吸した。目を開けると、不安定に揺れていた世界は消えて、線のはっきりしたいつものアパートがそこにあった。
……あの手紙も、お酒が見せた幻覚ではなかった。

『人殺し』

前と全く同じ紙、同じ印字。芸のない奴め。
そう強がってみても、ちっぽけな紙切れをつまむ手は震える。左右を見回しても、そこには誰もいない。点在する街灯が、頼りなく辺りを照らしているだけだ。
それでもそこの薄暗闇から誰かが飛び出してきて、私にのしかかって首を絞めるんじゃないか──そんな妄想で胸の内がいっぱいになる。紙きれを握りしめ、足音を立てないようにして階段を一歩ずつ登って自分の部屋の前までやってきた。
モスグリーンのドアに背中を当てて、周囲を見回しながらバッグに手を入れて鍵を探す。キーケースはいつものところに入れていたから、手間取ることなく見つけられた。
問題はここからだ。
鍵穴を見ずに差し込もうとしてだいぶ苦労した。鍵に注意を持っていかれたら、その場で誰かに襲われそうな気がして怖かった。どうにかこうにか鍵を差し込んでドアを開けると、滑り込むように中に入って即座に鍵をかけた。
ホッと一息ついたのもつかの間、今度は中に誰かが侵入していたらどうしようと恐ろしくなった。犯人は私の家を知っている。ならピッキングなり何なりして、今か今かとこの暗がりで待ち構えているんじゃ……。
私は傘をつかんで電気をつけた。誰もいない。お風呂やトイレや物置きまで誰かいないか確認して、その場にへたり込んだ。

「……馬鹿みたい」

私の妄想はことごとく否定された。安堵するのに遅れて、乾いた笑いが漏れる。バッグに突っ込んだ紙切れを取り出した。

『人殺し』

ねぇ、あんたは私の過去をどうして知っているの?
あんたは、秘密にしようと決めた誰かなの?
私をどうしたいの?
……わかってる。こんな紙切れに問いかけても答えてなんかくれない。
もう疲れた。今日はこのまま眠ってしまいたい。
いやだめだ。お風呂に入らないと、せめて化粧は落とさないと。そう思うのに、身体はちっとも動いてくれない。

「……悠くん」

数時間前に、彼が宣った言葉がよみがえる。
──ちいちゃんが困っていたら、何をしてでも一番に助けるよ。
縋りたい。
縋って、子どもどころか赤ちゃんみたく、全て委ねてしまいたい。
頭を強く振って、手をつき立ち上がった。
いけない。彼は心身共に疲れ切っているのに、これ以上の負担は絶対にかけられない。
鉛のようになった身体を引きずって、洗面台に向かう。クレンジングを手に取り、かなり雑に化粧を落として顔を拭いた。本当はパックとか色々したかったけど、限界が近くてそこまで気力が湧いてこない。
窓は閉まってる。鍵も閉めた。電気は全て消してベッドに倒れ込めば、目蓋は自動で落ちてしまった。



電話の呼び出し音が聞こえる。そういや精算がまだの書類があった気がするからそれかな。早く出なくちゃ。待たせるなんて社会人失格──
手応えのない世界で揺蕩っていた意識が現実へと引き上げられた。薄暗い部屋で、服のままベッドで眠ってしまったらしい。ゆっくりと起き上がれば、小枝を踏んだ時みたいな音が身体から鳴っている。
バッグから着信音が聞こえてくる。味気ない電子音に急かされて、夢うつつに後ろ髪を遊ばれながらバッグに手を突っ込んだ。スマホはすぐに見つかって、相手が誰かも確認せずにスライドした。

「もしもし、橋立さん?」

慌てて胸を押さえた。皮膚を破って飛び出してしまうかもしれないと思ったからだ。

「新島さん、おはようございます」

努めて冷静に振る舞う。頭痛がするのは気のせいだと思うことにした。
スマホ越しに聞こえる悠くんの声は少し掠れていて、妙に色っぽい。じゃなくて、風邪でも引いたんだろうかと不安になる。昨日は散々飲んだし、煽った記憶がある。
心臓が別の意味で鼓動を速くした。

「あの、体調は大丈夫ですか? 何か、声が……」
「いや大丈夫、心配してくれてありがとう」
「いえ、その……昨日はだいぶ羽目を外してしまいましたから」
「お互い様ですよ」

軽い笑い声が聞こえる。余裕が出てきた私は、周囲を見回してみた。カーテンの隙間からは日差しが不思議な図形を描き、車の走行音が遠くで響いている。
昨日はあんなに恐ろしかった自分の部屋は、何食わぬ顔をして私を取り囲む。そこに敵意も好意もなくて、全てが静かに、いつもの通りに鎮座していた。

「橋立さんが大丈夫か気になって……もしかして、寝てました?」
「先ほど起きたばかりです」

そう言ってしまってから、撤回したくなった。これでは暗に、この電話がモーニングコールになってしまったと伝えているようなものだ。

「無事に家には帰れたんですね、良かった」

けど悠くんは私を労わる言葉だけを与えてくれた。申し訳なさでいっぱいになってしまう。それ以上に、自分のことで手一杯になって相手は家に帰れたかを気にもしなかった。そんな自分が情けなくて居た堪れなかった。

「新島さん、電話?」

自己嫌悪で悶々としていると、右耳に女性の声が飛び込んできた。遠くて聞き取りづらかったけど、高い声をしていたから女性だと思った。

「それじゃ、会社で」

悠くんは途端に焦って、それだけ言うと電話を切ってしまった。私のくだらない自己嫌悪は吹き飛んで、代わりに猜疑心がどんと居座った。
あの女性は一体誰だったのだろう。新島さん、と呼んでいた気がするから、そこまで親しい人ではない? でも悠くんの家に行けるような人なら家族? なら新島さんとは呼ばないだろうし、どうして悠くんはあんなに焦ったの?
ああもう頭が痛い。気持ちが悪くなってきた。……これ二日酔いだ。
テレビを乗せているローボードの棚から救急箱を持ち出して、薄く埃を被る蓋を開けた。絆創膏や綿棒が整頓される中で、細長くて小さな箱を見つけて期限を調べる。大丈夫だった。
ゆっくりと立ち上がって台所に向かう。コップに水を汲んで、箱を開封し錠剤を取り出す。一息に流し込むと、それだけで楽になったような気がした。プラシーボ効果とかいうやつか。
今度はクローゼットに置いてあるルームウェアに着替えた。服はしっかりとハンガーにかけて、カーテンの近くに干した。
最低限の仕事をしてベッドに横たわる。さっき見たスマホには午前十時三十分と表示されていた。確かに電話しても問題ない時間だ。それで悠くんは電話してくれたんだろう。
……もう今日は寝てしまおう。何もしないでおこう。
何も考えないでおこう。
目を閉じて、深めの呼吸を繰り返す。目覚まし時計の規則正しい音を子守唄にして、私の意識はじわじわと眠りに浸食されていった。



週が明けて、私は出社してからすぐ課長に、「イベントのボランティア、どうなりました?」と尋ねた。今日が決まる日だったはずだ。ところが課長は眉間にしわを寄せ、唸り声を返してきた。

「ちょーっと難しいなぁ」
「難しい?」
「うん、力仕事が多いから、なるべくなら男性社員に来てもらいたいんだって」
「じゃあ難しいですね……」
「ごめんね、せっかく立候補してくれたのに」

課長が謝罪することではないだろうに、拝むようにしてくるものだから、それ以上は強く言えなかった。そうならそうとメールには記載しておいてほしいものだが、察しろということなんだろう。あーやだやだこの空気読み文化。
愚痴ったところでしょうがないので、本日の業務に没頭することを決めた。いつもは没頭してないって意味ではない。……誰に言い訳してるんだろう。
虚しい。
この表現が一番合っている気がした。
せめて斉藤さんがいれば、少しは気分が晴れるかもしれない。

「おはようございます」

そう思っていたら、神様が見るに見かねたのか斉藤さんが出社してきた。

「おはようございます」

気分が少しだけ晴れた。手紙とか悠くんのこととか色々あるけど、今はそれらを傍に置いて、仕事を一生懸命やろう。そう考えて手に取った書類は、企画部に持っていかないといけないやつだ。気持ちが早速揺らいだけど、仕事に私情を挟んだらだめだ。

「斉藤さん、企画部に持っていく書類、ありますか?」
「ええと、書類はないんですけど……」

斉藤さんは歯切れ悪く口籠ると、周囲にキョロキョロと視線を向けてから私に耳打ちしてきた。

「黒川さんには気をつけて」
「黒川さん、て……」
「親会社からの、です」

彼女の表情は強張っていた。頬や眉間から伝わる空気は硬い。

「新島さん……同じ親会社からの人に近寄らなければ大丈夫です。あの人、女の子だと仕事の話をしていても割って入ってくるから……本当に気をつけて」
「……ありがとう。気をつけますね」

私は頭を下げてお礼を言うと、他の社員や課長に持っていく書類はないか聞き回った。結果、時間の無駄に終わってしまった。
早足で廊下を歩いて企画部まで辿り着くと、皆が皆忙しなく動いていた。殺伐とした雰囲気がすごくて話しかけづらい。どうしたもんかとあちこちに目をやっていると、渦中の人物に声をかけられた。

「橋立さん、どうかしましたか?」
「新島さん」

天の助けとばかりに私は駆け寄った。

「こちら、企画部に渡す書類なんですが……」
「ああ、受け取っておきますよ。課長にですよね」

今は席を外しているので、戻り次第渡します、と約束してくれた。急ぎの書類とかじゃなくてよかった。
私はそそくさと企画部を後にした。背中に突き刺さる視線には気づかない振りをして、廊下を曲がったところから様子を窺う。

「新島さん……これ……」
「庶務が……会議……」

会話は途切れ途切れになって内容はさっぱりだが、初めて黒川さんの顔を真正面から見た。悠くんは私に背中を向けている形になるから、余程のことではない限り気づかないだろう。
すっごい美人だな。改めてそう思った。インフルエンサーとかやってそう、という第一印象は薄れ、どちらかといえばバリキャリの女社長として取材とか受けてそうだな、に変わった。

「!」

彼女と一瞬だけ視線が合わさったような気がした。さっと身を隠して、経理部までほぼ走るようにして戻る。出迎えてくれた斉藤さんは、ぎょっとした顔で私を給湯室まで連れていってくれた。

「……何か、されたんですか」

おずおずと背中をさする同僚は、眼鏡がずれたまま私を気づかう。その姿にどうしようもなく安心して、冷えてしまった指先に血が巡っていくのを感じた。

「何でもない、本当に何でもないの」

斉藤さんは何か言いたげに口を開いたが、これ以上は話してくれないだろうと判断したのか、「わかった」と頷いただけだった。
すぐに戻ってパソコンの液晶と対峙する。仕事だ仕事。何のために会社に来てるんだ。そう自分に言い聞かせて会計ソフトと格闘を始めた。



お昼の時間になって、今日は社食で食べることにした。斉藤さんはもう少ししてから休憩にすると言っていたから、久々に私一人だけのランチタイムだ。
注文したA定食を受け取って、適当に空いている席に座る。早いところ食べて、作りかけの領収書を終わらせてしまいたかった。

「すいません、ここいいですか?」

誰なのかを確認する前に、その人は私の真ん前に座った。甘めの香水がふわりと香る。

「あ……」

美人って独特の圧があるよな。
私はただ間抜けな、もとい現実逃避も甚だしい思いで目の前にいる黒川さんを見つめた。
優しく目を細めているのに、背中を流れる冷や汗は止まらない。それを知ってか知らずか、彼女は口元だけで笑ってみせると、顔を俄に近づけて、囁いた。

「あなた、人殺しなんでしょ」

思考が停止した。
彼女はやはり優雅に口の端を吊り上げて、さっさと席を立ってしまった。
その姿を見送れるはずもなく、私は石化の呪文でも唱えられたかのように動けなくなってしまった。それでも思考だけはすぐできるようになって、脈打つ心臓を押さえることもできずに、渦へとのまれていく。
どうして彼女が知っているの?
彼女があの手紙を送ったの?
だとしてもどうして今になって?
社員食堂の騒めきが遠い。今起きたことは夢なんじゃないかとさえ思う。でも違う、歴とした現実だ。
ご飯食べないと。まさか調べたの。仕事が中途半端だ。これからどうしよう。
脳内はとっ散らかったまま、機械のように手と口を動かして定食を片付ける。味なんてもうわからない。
立ち上がって、食器を返却しにカウンターへと返す。受け取ったパートのおばさんは、徐ろに口を開いた。

『人殺し』

談笑する声が、食器が触れ合う音が、入り混じる足音が。
全てが、私を置いていってしまったような。
夢の中にいる浮遊感──そう表現するのが正しいと思う──地に足をつけている感じがまるでしない。
私の身体は、意識しなくても勝手に経理部に戻っていく。途中で、清掃係のおじさんと鉢合わせる。

『人殺し』

ドアを開けて、経理部に戻った。書類に判を押している課長に挨拶をすると、どんぐり眼が見開かれた。

『人殺し』



そこから意識は飛んで、私は帰路についていた。
西日が差しているけれど、まだ終業時間ではない。
ぼんやりする。確か……どうしたんだっけ。
とりあえずアパートに帰ろう。そう思った矢先に、スマホが鳴った。

「もしもし、橋立さん、今大丈夫ですか?」
「……悠くん?」

悠くんの焦った声が響く。この間もこんな声してたなぁ。

「……今、どちらですか?」
「今? もうすぐ家」

アパートの紺色の屋根が見えてきた。正直にそう言えば、悠くんが息を詰めたような気がした。
アパートの入り口まで到着して、いつものようにポストを覗く。白い封筒がある。表にも裏にも何も書かれていない。病的なまでの白。
開けると、今度は写真が入っていた。いつ撮ったのかはわからないけど、目線が合ってないから勝手に撮られたやつなんだろう。それに赤い絵の具か何かで『人殺し』と書かれている。

「もうやだ」
「橋立さん?」
「助けて」

存外するりと喉から出てきた。迷惑をかけたくないと思っていても、こんなにも私の意志は弱い。

「橋立さん、いいですか、落ち着いて聞いてください」
「うん」
「近くにコンビニか何かありませんか?」
「ある」
「そこに向かってください」

のろのろと歩いく。コンビニはいつも通り開いていて、そこまで混んではいなかった。

「ついた」
「そしたら、そこの住所を教えてください」

私は言われるがまま住所を教える。悠くんと話していると、余計なことを考えずに済むからいい。苦しくならない。
けど「すぐ向かいます、そこで待っていてください」と電話を切ってしまった。私はそれならと、コンビニに入ってイートインスペースで待つことにした。相変わらず店員もお客も私を見て『人殺し』と言ってくる。ちっちゃい子どもまでもだ。
私は缶コーヒーを手にセルフレジで精算して、スペースにあるイスを引いた。カバンを置いてプルタブを開ければ、コーヒーのいい香りが漂う。
短い着信音が鳴って、誰かからメッセージが送られたのふぁとわかった。スマホをまた操作すると、なんとびっくり、黒川さんからだった。
教えてもないのに。

『人殺し』

『人殺しのくせに』

『新島さんに色目つかって』

『新島さんと付き合ってるのは私』

次々と送られてくるメッセージを見ていられなくて、電源を切ってカバンにしまう。少しでも気を紛らわそうと、コーヒーを一気に飲み干した。
悠くん、早く来て。
悠くん。



「ちいちゃん」



意識が浮かび上がる。
後ろから私を抱きしめる腕に、指を這わせた。規則正しい寝息は乱れない。
気持ちはやっと落ち着いて、昨日のことを冷静になって思い返せるようになってきた。
経理部に戻ってきたら、課長は私の顔色がひどく悪いのに驚いて、すぐ帰れるように手続きをしてくれた。明日も休めるようにしてくれて、これは次に出社した時にお礼を言わなくちゃいけないなと頬を掻いた。
アパートに送られてきた手紙は回収していない。あの時の私は何を思ったのか、ポストにまた入れた。自分でも意味がわからない。
悠くんは悠くんで、私が持っていった書類に関して聞きたいことがあると経理部を訪ねたら、具合が悪くて早退したと斉藤さんに教えてもらったらしい。嫌な予感がして電話をしてみたら、私の尋常ではない様子に焦り、会社を抜けて駆けつけた。
申し訳なさすぎて縮こまると、悠くんはなんでもないかのように笑って、こう言った。

「ちいちゃんが困っていたら、何をしてでも一番に助けるよ」

こっちに来てからずっと働きづめだったし、ここらで休ませてもらうから心配しないで、とも言って、私の頭を撫でてくれた。
その手が頭から頬へ、肩へ、腰へ動いても、私は抵抗しなかった。吐息が互いの肌を滑っても、喜んで悠くんと一つになった。どろどろに溶けあって、切り離せないくらい一緒になれたらいいと思った。そうすれば、誰にも何にも脅かされずに生きていけると、その時は本気で考えて背中にしがみついていた。
そんなはずないのに。
私たちはどれだけ願っても一つにはなれない。別々の人間である以上は、二人のままだ。

「……ちいちゃん、起きてたの」
「病院、行かなきゃ。メンタルクリニック」

起き抜けの掠れた低音が、耳の中に流し込まれた。
仕事三昧で大変だったろうに、私の世話までしないといけないなんて、休む暇は一秒もないだろう。
なら私は自分ができることを精一杯やるだけだ。
病院へ行って診察してもらって、警察に行って相談する。今の私ができるのは、しなければならないのは、この二つ。
ひと段落ついたら引っ越しの準備をしよう。ウィークリーマンションに一時避難するでもいい。それから、それから──

「俺もついて行くよ」
「えっ、いいよ」

突然の宣言に思わず拒否した。いや“思わず”は違うな。これは紛れもない私の本心だ。

「そこまで面倒みてもらうわけには……」

言い切る前に、悠くんの腕の力がこもった。力強いのに痛くはないこの絶妙な加減。頸にも額を擦り付けられてむずむずしてしまう。……何というか、慣れてるな?

「ひっどい顔してたよ。ほっとけない」
「そんなに……?」
「コンビニで見つけた時は、真っ青で目が虚ろだった」

なんかぶつぶつ言ってたし、と悠くんは呟いた。そんなの初耳だ。側から見ればめちゃくちゃヤバい人じゃない。

「今はどう? 落ち着いてる?」
「うん、いつも通り」

その返答に緊張していた身体から力が抜ける。自分じゃわからないもんだ、と今になってゾッとして、大人しく悠くんの提案通りついてきてもらうことにした。

「とりあえずなんか食べてからにしよ、シリアルでいい?」
「そうだね……本当にありがとう」

何から何までお世話になりっぱなしだ。床に放りっぱなしの昨日の下着やら服やらを身につけて、こっそりため息を吐いた。カバンはどこに置いたっけな……と辺りを見回してみると、隅に悠くんのカバンと並んで置いてあった。
白とネイビーブルーを基調にした部屋に、私のキャラメル色したカバンがちょこんと正座してる。それが朝日を浴びてすまし顔をしているようで、くすりと笑う──前に、二つ分の着信音が鳴り響いた。
着替え終わって部屋から出ようとした悠くんが、先に黒いカバンからスマホを引っ張り出した。私も倣うようにしてカバンを開けて、自分のスマホを取り出す。
斉藤さんだった。

「橋立さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」

ざわざわとしているが聞き取りづらいほどではない。今日の経理部は珍しいなと思いながら何かあったのか聞くと、ファイリングした資料が見つからず困っているということだった。

「お休みなのに本当に申し訳ないんですが、二ヶ月前の決算書って、一番右の棚ですよね?」
「そう……ですね。すいません、今は家にいないのでなんとも。でも確かにそこです」
「え、今は家にいないんですか?」

しまった!
そう思ってももう遅い。でも斉藤さんなら大丈夫か、と考え直し、正直に悠くんの家にいると告げた。

「あ、ええと、まぁそういう……」

察したらしく、歯切れの悪い言い方をしながらも皆まで言わずにいてくれた。
役に立てなかったことを申し訳なく思いながらも切ろうとしたら、後ろから肩を叩かれた。

「ちょっと外に出てくる」

悠くんのスマホは未だに鳴り続けている。苦み走った顔をして、バタバタと足音を立てて行ってしまった。私は返事もできずにその場に座ったままだ。

「新島さん、どうかしました?」

斉藤さんの声に我に返り、たった今悠くんが外に出ただけだと伝えた。気まずさや気恥ずかしさからは目を逸らして、早口で役立てなかったことを謝罪して、「失礼します」と締めくくり、電話を切った。
さて……。
私は玄関まで移動して、ちょっとだけドアを開けた。女性の怒鳴り声と泣き声が交互に聞こえてくる。悠くんも何か話してはいるけど、女性の圧倒的なパワーに気圧されるでもなく、淡々と、冷静に応じていた。
なるべく音を立てないようにしてドアを閉める。寝室へ戻ると、カバンの中身を失くしていないか点検をし始めた。
数分も経たないうちに玄関から物音がする。落ち着いた足取りが聞こえてきて、私は安堵した。

「ごめんね、すぐ用意するから」
「ううん、いいの。手伝わせて」

私はカバンに出した物を全部押し込むと、悠くんの後についてキッチンに向かった。



シリアルを食べたら歯磨きをして、悠くんの車に乗せてもらい病院と警察に向かった。病院では診断書をもらって、それを使って休職できるようになると教えられた。警察へは、行く前にアパートに寄って証拠を集めて持っていった。しかしこれは嫌なほいの予想通りで「見回りを強化します」で終わってしまった。
こうなる可能性が高いと、心のどこかではわかっていた。それでも落胆してしまう。

「俺のマンションに引っ越したら?」

悠くんはステアリングを捌く。「今日は出前にしたら?」ぐらいの気安さで言われたものだから、うっかり聞き流すところだった。

「悠くんまで被害に遭うかもしれないよ。いいの?」
「苦しそうにしてるちいちゃんを見てるだけなのが嫌だ」

悠くんの横顔を盗み見る。目には力強い光が宿り、これは余程のことがない限り譲歩してはくれないな、と膝に視線を落とす。

「荷物は……」
「少しずつ運ぼう」

訥々と話していれば、もうマンションの近くだった。パトカーが数台停まっているのが見える。野次馬も集まって騒いでいた。近くで事件でもあったんだろうか。
マンションの駐車場に入ろうとすると、警察の人に止められた。悠くんが応対して部屋番号を伝えると、渋面のおじさんは顔色を変えた。

「署までご同行願います」
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